小説

『ツエツペリンNT号の誘因』イワタツヨシ(『かぐや姫』)

 人は高いところから落ちることをまったく予期していなくても実際にそうなったときには、瞬時に、そうだ、と分かるものだ。それでそう思ったときには大体もう落ちるところまで落ちている。そのとき、私はもう海の中にいた。ずいぶん高いところから落ちて海面に叩きつけられ、目を開けると海の中にいて、上を向くと海面が月明りで光っていた。沈んでから浮上するまでにだいぶ海水を飲んでしまった。
 泳ぐことは得意だったが、少しの間は混乱して溺れかけていた。体の力を抜いて、波の揺れに合わせてゆっくりと足と腕を動かすと上手く浮いていられるようになった。それから立ち泳ぎをしながら一度ぐるりと辺りを見渡すと、遠くに町の明かりが見えた。良かったが、かなり距離がありそうで泳ぐ前にうんざりした。
 それにしても、どうして夜の海なんかにいるのか。ここは一体どこだろう。
 町明かりに向かって泳いでいる途中でまた上手く泳げなくなった。意識を失いかけて体が沈んでいった。もう駄目だな、と思ったとき、誰かに手を握られているような感覚があり、人の声が聞こえた。

 閉じていた目を開けると、女性が私の手を握っていた。海へ落ちる前に飛行船の通路で見た女性だ。しかし髪が伸びていて印象が違う。服装も変わっていた。
 そこは飛行船の中だった。暗く、酷く暑く、初めのときのように船内は短絡が生じていた。
「早くここから出ないと」と、彼女は言った。「立って自分で歩ける?」
 私は頷いた。しかし立ち上がろうとすると体中が痛くて仕方なかった。しかも全身がずぶ濡れだった。
「早くしないと」と、彼女が私の手を引っ張った。しかし外へ出る前にまた酷い頭痛が始まった。

 彼女と手を握ったままでいた。閉じていた目を開けたとき、三度、不思議な感覚にかられた。飛行船の中にいたが、意識を失う前と後で違うところにいるようだった。コックピットに男と女がいて、男がこちらを向いて立っていた。私は咄嗟に逃げようとしたが、彼女が握った手を離さなかった。
「大丈夫」と、彼女は言った。「二人は私の仲間だし、二人には私たちが見えていないから」
 私たちが見えていない? どういうことだろう。
「今はいつだろう?」と、彼女は呟きながら船内を見渡した。
「今はいつだろう?」と、私は彼女が言ったことを繰り返して首をひねった。
「あの飛行船は故障していて船内がとても不安定な状態だから、中にいると、こうしていつかも分からない時間に来てしまうのよ。あの中で何かが起きているせいで、空間と時間が歪んでいて」彼女が言った。「外のドアの貼り紙を見なかった? 故障中て書いた」

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