小説

『二十日前から』坂入慎一

 体ががくっとして、目を覚ます。知らない間に寝ていたようだった。窓の外を見るが土砂降りの雨がまだ降り続けていたので夜が明けたかどうかもよくわからない。
 女はまだ部屋にいて、最後に見たときと同じく窓を背にして膝を抱えている。
「二十万年前、あなたに助けて頂いた鹿です」
 私がもう知っていることを女が繰り返す。そう、鹿だった。鹿のような生き物だった。
「あのときのことをもう一度やりましょう」
 そう言って女が立ち上がる。二十年前より女の背は伸びていて、その分痩せたようだった。昔のように女には生きている気配がなく、体は少し透けていた。
「私は鹿で、あなたは人で、また同じことをしましょう」
 女が私に近寄り、腕を掴んだ。細い腕の何処にそんな力があるのか万力のように私を締め付ける。私は掴まれていない方の腕で女を引きはがそうとするけど、びくともしない。やがて女はもう片方の手でも私の腕を掴み、私を床に押し倒した。
「二十万年前に帰りましょう」
「……帰らない」
「それは嘘です。本当は、帰りたいと思ってる」
「帰らない」
 ぐい、ぐい、と女が力を込める度に私の体が床にめり込んでいく。ぐずぐずと床が溶け出し、埋まるように私は少しずつ沈んでいく。
 女を押し返そうとするがぴくりとも動かない。足をばたつかせ、全身で暴れても、女の腕は固定されたかのように私の体を沈め続ける。
「二十万年前なんて、ない」
 そう、私は言った。言ってから、言わなければ良かったと思った。後悔で泣きそうになった。女はそんな私の耳元に口を寄せ、囁くように言った。
「私も昔はそう思っていました。でも、あるんです。二十万年前、私は鹿で、あなたは人でした。それは本当にあったんです」
「あったと信じたいだけでしょ」
 私も二十億年前はバクテリアだった。海は心地よく、過不足のない幸福な日々だった。それが本当であって欲しいと思ってる。でも嘘なのだ。本当は〝昔〟なんてない。
「二十億年前も、二十万年前も、二十年前も、二十秒前も、何もない。世界なんて本当はないの。何もないの」
「あなたの実家が焼けた時間も?」
「ない」

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