小説

『二十日前から』坂入慎一

 女はいつも窓際の席にいて、私はいつもその後ろの席だった。女は、本当は何処にもいないのではないかと思えるほど生きている気配がなく、クラスメートは誰も女の存在に気づいていないようだった。あまりにも存在感がないため陽射しの強い日などは太陽光で女の体が透けて見えた。
 私と女は図書委員だったので月に何回かカウンター当番で図書室にいた。本を借りに来る生徒はまばらで、暇な時間を持て余した私達はもっぱら適当な本を読んで過ごした。女は歴史の本をよく読んでいた。自分が生まれる前のことを知るのが好きなのだといっていた。
「歴史って、本当は全部嘘なんじゃないかって思うんです」
 読み終えた本をパタンと閉じた後、女はそんなことを言った。
「だって五百年前や千年前のことなんて、今生きている人は誰も見たことがないんでしょう。だから本当は〝昔〟なんてなくて、今の世界が二十年くらい前にポンって出てきたんじゃないかって」
「でも歴史の資料とか痕跡があるんだから、やっぱり二十年以上前からあるんじゃないかな」
「その資料や痕跡も二十年前に世界ができたとき一緒に作られたんです。世界も、人も、人の記憶も、二十年前にいきなり出てきたんです」
「……雨、降ってるね」
 窓の外を見ると、さっきまで晴れていたのに今は土砂降りになっていた。雨が窓を叩く音だけが原始的な楽器のように鳴り響く。
「二十年前じゃなくて、二十秒前かもしれない」
 独り言のように女が呟いた。
「二十秒前に世界はできて、それより前なんてなかった」
 雨が、強くなっていった。嵐のように吹き荒れる雨は女の言葉をかき消していく。ごうごうと、窓を叩く。女が何かを言っているがよく聞き取れず、女の体は少しずつ透けていく。私は身を乗り出し、女の口元に耳を寄せた。女の吐息と、か細い言葉が聞こえた。
「でもそれだと、鹿だったこともなかったことになってしまう」
 その言葉で、私は、全てを思い出していた。二十万年前、私はホモ・サピエンスで、鹿のような生き物だった女と出会っていた。その二十億年前、私はバクテリアで、原始の海をたゆたっていた。バクテリアである私に知性はなく、世界の認識も曖昧なものだったけど、海が好きだった。今よりも温かく、オゾン層もなかった時代の海はとても心地よかった。
 バクテリアには目も、耳も、鼻もないから、ただふわんふわんと生きていた。ふわんふわん、としているだけで良かった。ああ、この頃から私はこうだったのだなと思った。二十億年後のアパートで一人、ふわんふわんと引きこもっている。バクテリアのように。

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