小説

『人形寺』武原正幸(『人形の墓』)

「この世から不幸は消えません。不幸がなければ幸福もありません。この二つは同じものなのですから」
「そ、それでは、不幸はどこに行くのでしょう? また弥生に戻るのでは……」
「その心配はありません。不幸は家族に引き継がれますがーー加那は人形ですから。他の人形たちーーつまりこの寺にいる私たちが引き継ぎます。弥生さんに戻ることは、決してありません」
 そう言うと、尼僧は微笑んだ。親しみのある優しい微笑みだったーーそのはずだった。だが、今の私には、その笑顔がひどく作り物めいて感じられた。
 私は、ただただその笑顔を凝視するばかりだった。

 しばらくして、弥生と妻が戻り、私たち三人は寺を辞すことになった。もう夕暮れが近く、辺りは茜色に染まりつつあった。
 見送りに門のところまで出てくれた尼僧に、幾度もお礼を言い、歩き出す。
 しばらく行った後、皆で振り返る。尼僧と見習いの少女の二人が、まだ見送ってくれていた。
 弥生が手を振り、二人も振り返してくれる。名残惜しげに妻と弥生はまた道を辿る。
 私は、まだ見つめていた。夕焼けの光に二人の僧衣が茜色に染まりーー一瞬、赤と朱色の着物のように見えた。

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