小説

『瓶詰ノ世界』北村灰色(『瓶詰地獄』)

 私が不意に右手を挙げれば(私)も右手を挙げる。私が左手を挙げれば(私)も左手を挙げる。けれど、私が(私)を見る為に振り向いても、(私)は私を凝視したままだった。目も鼻も無く、唯、食紅と白粉で塗りたくったような歪んだ口元と、痩せこけた輪郭や妙な癖毛が私を模写した、そんな存在。
 水のない此処で、息も絶え絶えなミミックオクトパスがオレンジの表皮に擬態し、糖尿病のコノハチョウがシャーベットに擬態化しているから、私は時々彼らを踏んだり、或いは触れたりしてしまうが、(私)は彼らに接触することはない。それとも、彼らが(私)を避けているのか。
 私がピエロ姿の殺人鬼に仮装をしても、私が遊園地にて、或る蟻のキャラクターに擬態をしても、子供たちがオレンジ色の天使と風船の方に群がるように、大人達は茜色のメリーゴーラウンド内で時計回りの傍観者であることを選ぶように。
あてのない世界、後のない世界で私と(私)の歩みは続く。白磁の太陽は無機質な正気を失いつつあり、私たちはカシス・オレンジの夕陽に染められ始める。無言だった空には、千切れ雲が流れ、寒色は暖色に歪み始めた。まっさらなスクリーンがようやく予告編を垂れ流し始めるように、エンドロールがようやく「本当の」エンディングを曝け出すみたいに。
注がれた逢魔が時、有刺鉄線で作られた7月のクリスマスツリー、止血剤の効かないローストビーフ、アイスクリーム・ケーキとキャンドルが溶けあって、蝋と糖の境界線を喪うパーティ。昏迷のち酩酊、純粋な羽を失くした天使はマッチ売りの少女に変換される。そう、蟻のように蠅のように、甘く冷たい蜜を求めて徘徊する黒い影の中、独り虚しく、湿気た煙草に火をつけようと、再び青と白を取り戻そうと。
 マドラーでかき混ぜられた逢魔が時、公園の砂地に落ちた鼈甲飴を拾うか、それに群がる黒蟻を殺すかで悩んでいる、三番目のトイレで行方不明になっていた少女。エレベーターとエスカレーター、どちらを選べば平行世界に辿り着けるかを地下鉄三番線ホームにて逡巡していた少年。
 彼らが青春に揺らぎ、そして青い春を迎える頃に狂ってしまう何時かの映画のワンシーンが網膜にへばりつく。
そして不意に現れるカーブミラー。そのカーブミラーに映る白いマスクにロングコートの少女A。カーブミラーに映る赤マントの少年B。彼らは朝や昼を、太陽の暖かみをとうに忘れてしまっているかの如く、水死体のように蒼白で、壊れた機械仕掛けの人形のようにグラグラと揺らいでいた
 鏡の中で佇む彼ら或いは彼女らが私の心を壊しても、頸動脈を引き裂いても、(私)は気にもしないだろう。私が死んでも、(私)は漆黒に染まる永遠の傍観者として佇んでいるような、そんな気がするから。
「私は逃げた方がいいのかな?」
 オレンジ・ジュースを飲むマッチ売りの天使に問いかけるが、裸足の彼女は裸になり始めるだけだった。夜になれば闇が私の肌にモザイクを掛けるから、裸になれば私が天使だったことを思い出すからと呟いて。

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