小説

『キツネに嫁入り』高平九(『狐の嫁入り』)

 わたしたちの目の前を誘うように通り過ぎていく。わたしは迷わずそのあとを追った。「あなた?」まだ爪楊枝を持ったままの妻が言った。「ねえ、あなたどこにいらっしゃるの?」
 チョウチョウに目をこらしてあとを追った。妻もあとをついてくる気配を感じるが、わたしはけして振り向かなかった。
 チョウチョウは駅前を離れていく。やがてまわりに田んぼが広がる場所に出た。それでもまだポツポツと人家が見えている。さらに進むと人家が一切なくなり、広い野原の道にやってきた。背高の草が一面に茂っているので、くねくねした細い道があるだけで周囲を見渡すことはできない。無数のチョウチョウが飛び交っているのに、なぜか目の前の白いチョウチョウを見失うことがなかった。それだけはっきりした白色だったのだ。そのチョウチョウがふっと草の陰に入って見えなくなった。不安になったわたしが足早に進んで見ると、なんのことはない、チョウチョウは背の高い白い服を着た男の姿になっていた。

「ねえ、帰りましょうよ。ここは気味が悪いわ」
 翌朝、掛け布団の中に身を隠すようにして妻が言った。誰かに見られているような気がするというのだ。案内された宿の部屋は和室で、八畳の部屋に四畳の次の間がついていた。真新しい畳のにおいがして、広い縁側からガラス戸を通して裏手のせせらぎが見えた。古風な造りでありながら、すべてが新品のような不思議な部屋だ。
 昨日、白い服の男は何ごともなかったように「いい宿があるんですよ。昨日までの宿はあなたにはふさわしくない」と「私」に向かって言った。男は細面の顔を惜しげもなく開いて笑った。ほら何も隠していませんよという手妻師のようだ。「あなた」という言い方がなぜか妻に向けられているように感じた。
宿につくといつの間にか男が消えて、宿の女将と名乗る女性に部屋に案内された。男とよく似た細面の美しい女将だった。
「あいにく部屋にお風呂がありませんの。その代わり名物の檜風呂にお二人で入ってください」
 女将の言うとおりだった。湯船も桶もすべてが真新しく、はじめて使うようにきつい檜の香りがしていた。妻とふたり湯船につかると、それを待っていたかのように一面に湯気が立った。見えるのは妻のぬらぬらとした裸体だけである。妻は白くて柔らかな肌をしていた。それが湯で温められて、ほんのり紅くなっている。抱き寄せて湯船の中で交わった。
 少し疲れたと言って妻が先に風呂を出た。檜の香りをかいで余韻に浸っていると、誰かが湯船に入る気配がする。
「どうです?檜風呂は?」わたしの身体に女将の白い肩が触れ、柔らかな感触が深いところを刺激した。
「え、ええ、満足しました」
「奥様だけで?」
 私が「はあ」と間抜けた反応をすると女将はほほほと笑いながら、私の上に豊かな身体をあずけてきた。湯船で一度、女将の部屋で二度交わった。女将はその間も終始ほほほと笑っていた。

1 2 3 4 5