小説

『川せみになる』菊武加庫(『よだかの星』)

 中一の夏ことだ。クラス何人かで集まることになった。と言っても派手に遊ぶことはなく、少し離れた場所にある、ショッピングモールに行くだけだが、それでも当時の自分たちはわくわくしたものだ。私服で友だちと会えるのは特別だった。
 私はお気に入りのキャスケットをかぶって行った。生成りに細い紺の縦縞が入った生地で、少し離れると無地に見える。ゆるやかな丸みのある短い庇(ひさし)も、ふっくらとしたシルエットも大好きだった。ちっとも美人ではなく、思春期に入ってから急激に太った私が、この帽子だけはよく似合っていた。休みの日に友だちと会うならこれしかない。服はTシャツとGパンしか持ってないのだ。
「茜ちゃんの帽子可愛い。よく似合ってる」
 弾むような声がして私ははにかんで笑った。と、そのまだ消えきらない笑顔を誰かの手が遮った。何が起きたかわからなかったが、次の瞬間、帽子は幸恵の手でひらひらとしながら青い鳥のように視界を横切った。
「ちょっと貸して。かわいい。私似合うと思わない?」
 お気に入りの帽子は幸恵の頭の上で晴れやかに乗せられ、そこにいた子たちは口々に似合うよとか、なんでも上手に着こなせるねなどとへいこらする。私はさっきの笑顔がはりついたまま、ほんの数秒の出来事をコマ送りフイルムを見るようにじっとするしかなかった。「やめて」とも言えず、ぼんやり見ているだけの私に帽子が戻ってきたときには、大好きな帽子は他人の顔に見え、もうそれは自分の物ではない気がした。たったこれだけのことで13歳の心は大人が想像できないくらい傷つき、警戒心の殻に入り込んだ。油断するなと。
 そんな私にも、たった一人心を許せる友人がいた。世界一嫌いな女と一字違いの幸奈(ゆきな)という少女だ。一字違いだが幸奈(ゆきな)は幸恵(さちえ)とは何もかも違っていた。
「茜ちゃん、帽子かわいい。似合ってる」
 その弾むような声の持ち主は幸奈だった。明るくて、包み込むような声でいつも楽しませてくれた。嫌いな言葉だが、癒し系というものがこの世に存在するならば、それは笑窪の愛らしい幸恵(さちえ)ではなく幸奈(ゆきな)だと思っていた。 

「あれから十年だよね」
 隣から現実の声がして、みぞおちのその奥をぎゅっと掴まれた気がした。暑くはないはずなのに汗が手のひらに浮き、止めようとぐっと握った。この女は何を言っているのだ。
「・・・十年て」
 愚問だ。こうやっていつも応戦一方になるのではないか。いつも私はこうして自分も守れず、その上――。

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