小説

『大輪の花』菊野琴子(『酒呑童子』)

 ここは寒い。とても寒いところだ。
 こまかくて硬い雪は片栗粉みたいな音をたてて足の下で軋む。木々や枯れ草は馬鹿みたいにきらきらと輝いている。これは霧氷というものらしい。僕は勝手に「氷の花」と呼んでいたけれど。まあいい。
 ああ、もうすぐ着く。ここいらでは大切にされていると聞いたが、こんなに寒い日にも入り口には白い菊と黄色い菊が左右に一本ずつ供えてある。(花を供えても、すぐに凍ってしまうだろうに。)社は古いけれど、戸をひらくところがぴかぴかしているから、定期的に人が出入りしているのだろう。
 ぴかぴかしたところに手のひらをあてて、ぐっと押してみる。水気の抜けた古い木は思いの外軽かった。黴とかすかな埃のにおい。固く凍った土を二、三歩踏むと、顔が見えてきた。
 やわらかい石を削ったようで、所々欠けている。右耳なぞは、ほとんど無い。けれど、くちびるだけは欠けがなくふっくら残っていて、今にも動き出しそうだった。
「…なるほど。よい地蔵だ」
 コートの裾をはらい、地べたにあぐらをかくと、さすがに尻がひやりとした。なんとなく、ここには長いこと居るだろうと思った。しばらく地蔵の顔を仰ぎ見ていたが、気づくと瞼を閉じていた。
 瞼の裏に、大輪の花が咲く。やあ、また逢ったね。と、胸の内で呟く。
 花はひらりと花びらを落とす。落ちた花びらが、僕の盃に浮かぶ。僕はそれを飲み干す。
 お地蔵さま。僕の見ているものが、あなたにも見えるんだろう。観音さまや、お不動さまや、たくさん会ってきたけれど、どうやらお地蔵さまが一番僕に寄り添ってくれるようだから。それに、あなたは少し、あの時の僕に似ているよ。
 ねえ、お地蔵さま。僕の盃に浮かんでいたのは赤い花びらだった。僕らが着く、ほんの少し前までは欠けることなく美しくひらいていた大輪の赤い花。花は泣いていたよ。泣く花は美しかった。僕は少しも欠けているなんて思わなかった。けれどもかつての姿を知っていた周りの花々は、大輪の花を哀れんでずっと泣いていた。
 ぶるると震える。指の先が痛くなってきた。
「まいったな。本当にここは寒いところだ。お地蔵さまは、もう慣れたのかい」
 ふっくらと微笑む。稚児のようだと茶化されていたあの時の僕みたいなくちびる。あの時は、いろいろなことが楽しかった。強くなっていくことが。新しい世界を知ることが。(刀が軽やかになり、水を切るように肉を斬る、夢のような一瞬。)
 喜ばれると嬉しかった。恨まれても平気だった。なすべきことをしていた。だから楽しかった。
『おまえは、鬼に遭った者だね』
「…これはこれは。地獄へ行ったことがあるお地蔵さまが、こんなところに居たとは」

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