小説

『邪悪の森』和織(『狂人は笑う』『猟奇歌』夢野久作)

 飴をもらうときの子供のような顔をして、Yは言った。加藤というのはこの病院のスタッフで、今回のYのターゲットだった女性だ。スタッフがターゲットにされたのは、初めてのことだった。「決してYと二人きりになるな」と、スタッフたちにはさんざん言ってあったのだが、どうしても皆、特に女性の場合、Yに隙を作ってしまいがちだ。なにせYは元俳優である。演劇のことはわからないが、演技しているのかどうかがわからないということは、それなりの腕があるのだろう。それに、その端正な顔立ち、十代の女性のように透き通った滑らかな白い肌、全体の美しい造形、甘い声。Yは自分の持っている魅力をメデューサのように素早く使いこなすことができる。男に対してであっても、どういう風に見せれば自分に好意を抱くのが、説明書でも存在していて、それをインストールしてあるかのように完璧に心得ている。それにYがこの病院へ来て五年になるが、彼の容姿は初めて会ったときと全く変わっていない。もう四十になろうかという歳だが、今でもまるで学生のように若々しい。この男は、そういう星のもとに生まれた人間らしい。
 そんな奴を相手にしてのことだから、加藤が彼に隙を与えてしまった気持ちもわからなくはない。が、その一瞬の気のゆるみによって、彼女は自らの未来にハンマーを振り下ろしてしまった。Yは十分もしないうちに、加藤の心にどうしようもないトラウマを植え付けた。それで、彼女の心は潰されたビスケットのように粉々になってしまった。今度は何を言ったのかと私が訊くと、Yはこう言った。
「世間話みたいなもんだよ。ただ、こういうところで働いてる人って、自分が傷ついたことがあるから、人を助けたいっていう尊い心を持った人が多いんじゃないの?尊いものってさ、とても壊れやすいよね。そうでしょう先生?」
 きっと随分前から、Yはまたいつものように、ターゲットである加藤をじっくりじっくり観察し、彼女の性格や今の生活状況を見抜き、開けてはならない部分をこじ開け、隠れていた傷を露わにし、そこへ塩を塗り付けたのだろう。確かに加藤には、幼い頃男に連れ去られて悪戯をされたという過去があった。そしてそれを知っているのは、病院の中では私だけの筈だった。だからこれを防げなかったのは、完全に私の管理不足だ。患者にばかり目を配って、まんまとYにやられてしまった。
「彼女は大丈夫だ」
 私は言った。すると、Yは目を爛々と輝かせて身を乗り出した。
「やっぱり先生が観るの?今度、会わせてもらえる?」
「調子に乗るな」私はYに顔を近づけてやった。「彼女はすぐ回復する。そして二度と君に会うことはない。君のことは忘れられないかもしれないが、人間は訓練すればトラウマと一緒に生きていくことができるんだ。そして加藤は既に、その方法を知っている」
「・・・・・残念だなぁ、久々に恋ができるかと思ったけど」

1 2 3 4 5 6