小説

『たまゆらの断罪』木下衣代(『蜘蛛の糸』)

 今まで何度も犍陀多が耳にした命乞い。言葉さえまだ発することができない幼い命。犍陀多がゆっくり刃を降りおろすと、あっという間に赤子はこと切れた。女は犍陀多の耳がひきちぎれるかと思うほど鋭く叫ぶと、そのまま動かなくなった。犍陀多は女にのしかかり、終わると女の喉に刃をつきたてた。女はなにも映さない瞳を見開いたまま、ずっとぴくりともしなかったので、犍陀多にはいつ死んだのか判然としなかった。

 血の池にむせぶ犍陀多は、初めて静寂の中にいた。もう絶叫も、泣き叫ぶ声も、轟く怒声も聞こえない。湿った暗闇で、おびただしい血さえも色味を失っていた。ずっと長い間ただ怒っていた犍陀多は、怒りを手放したことに気がついた。残っているのは苦しみだけ、延々と続く静かな苦痛だけだった。
 時おり頭をもたげてみると、はるか頭上に天上の気配をかすかに感じることがある。なにも光などみえないのに、犍陀多はそのことを知っていた。自分とはまったく無縁の世界だということも。
 ふと気がつくと、細い銀色の糸がたゆたいながらゆるゆると降りてくる。蜘蛛の糸。
 犍陀多はしばらく糸をみつめていたが、やがてたぐり始めた。どこにそんな力が残っていたのか、上へとのぼり始めていく。少しずつ少しずつ、天上へと近づいていく。
 怒りに突き動かされるままがむしゃらに生きていたころ、ただ一度だけふと起こした小さな気まぐれ。つま先を這っていた小さな虫けらをつまみあげ、「これも命だ」と助けてやった。はっきりと思い出した犍陀多は、地獄の底までたどりついて、ようやく自分が何者か悟っていた。
 俺は痛めつけられ痛めつけた、責め苦にもだえる罪人で、責め苦を与える鬼だった。泣き叫びながら俺に殺された者たち、同じような罪を犯した亡者たち、あれもみんな俺だ。
犍陀多は糸をつかんだ両手がおののくのを感じた。その俺が、一度だけ犯したほんとうの罪。分をわきまえぬその罪を、とうとう裁かれるときがきたのか。
 犍陀多はしんから怖ろしくなった。そしてこらえきれずに喚きはじめる。
 足元には犍陀多の世界が待っていた。まろやかな地獄。

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