「そういうことじゃ、おツル。いつ盗人に襲われるか、と毎日ビクビクしとる。百姓は百姓じゃ」
「…………」
おツルに言葉はなかった。これが彼らの本音なのだ。恩も時に仇となる……。
「ご迷惑、おかけしました」
おツルの声は切なげだった。真情を吐いたせいか、老夫は穏やかに返事した。
「なにを申す。こちらこそ礼を言うぞ、おツル」
「本当に帰るのかい?、おツル」
老婆が悲しげに問うた。老夫が強くたしなめる。
「これ以上、引き止めるでない! おツルが帰りづらいではないか」
「大丈夫です。お爺さま!」
おツルが決然と言った。湿っぽい別れはご免なのだ。
「お婆さまも、いつまでもお元気で」
「おツル!」
老婆が叫んだ時だ。家全体がガタガタと揺れ始め、襖が激しく鳴った。老婆が倒れ、老夫が慌てて襖へ駆け寄った。
「おツル!」
思い切り襖を開けた。四畳半の室内は戸が開け放たれ、羽毛が二本、寄り添うように舞い落ちていた。
「おツル!」
老夫が戸越しに空を仰ぐと、鶴が一羽、夕陽に向かって飛翔していた。翼が黄金に煌めいている。美しい。
「おツル……」
老夫が呟くと、その背に老婆が歩み寄った。
「形見じゃ」
老婆が老夫の肩から羽を摘み取った。老夫が振り向くと、老婆が羽を見せた。老夫はそれをしばらく黙って見つめていたが、やがて囲炉裏へ顎をしゃくった。
「飯にするか、婆っさま」
「そうだね、爺っさま」
振り向いた老婆の背にも羽が付いていた。それを老夫はそっと摘み取ると、また感慨深げに見入った。これで元の暮らしに戻る……。
夢のような歳月だった。