小説

『ごめんなさいね』吉倉妙(『マッチ売りの少女』)

 その激しい泣き声を初めて耳にしたのは、短大最後の夏休みが始まる少し前のことでした。それまで階下の音が聞こえてくるなんてなかったのに、突然赤ちゃんの泣き声が聞こえてきて、びっくりしました。
 下の部屋の人と顔を合わせたことはなく、ベランダに干してある洗濯物から、女性であるということだけを知っている程度の間柄。
 大家さんに知れたらいけないんだろうなぁ……という暗黙の了解みたいなものがあって、赤ちゃんの泣き方が激しいことを他言することは、何か告げ口をするみたいな感じもしましたし、ご近所でなく、入居時に挨拶に行ったっきり、顔もうろ覚えの大家さんと連絡をとることは、なんだか出過ぎた行動のようにも思えました。
 そして、地元へのUターン就職活動に入り、夏休みの全てを実家で過ごしていた私は、赤ちゃんの泣き声を耳にすることもなくなり、(何かあってからでは遅いかも……)という当初の懸念が、(帰ったら、下の部屋の人、引っ越してるかも……)と都合のいい期待に変化していた、そんな矢先のニュースでした。
 翌日の新聞には「育児放棄だった」との記事。
 1時間ほどの買い物というのは全くの嘘で、母親が家を空けていたのは丸一日。
 この世にそんな言葉が存在して、しかも、それは遠い世界の出来事ではなく、私の部屋の下で実際に起きていた現実で――。あの泣き声は、生後間もない赤ちゃんの精一杯だったのです。まだ寝返りもできない時期であったとのこと。
 小さな命が真っ直ぐ上に向かって、ありったけの声を投げかけていたというのに、私は、何も――何もしませんでした。

 そんなふうに何もしないことを不作為と言うのだと、一つ年上の彼が教えてくれました。
「優香は上に住んでいただけ、それだけなんだからね」
「けど私、何もしなかった。――何もしてあげられなかった」
「それを不作為と言うんだけど、刑法的に優香には保護すべき責任は無いんだよ」
「不作為?」
 理解できない私に、刑法の問題を使って説明してくれた法学部の彼。
 彼の部屋の本棚には、父親の司法書士事務所を継ぐために必要な試験の問題集がズラリと並んでいて、彼はその中から一冊を取り出すと、付箋が貼ってあるページを開いて私に手渡しました。
「そこの5番目の問題が不作為の罪に関するものなんだけど、解説を読んでみてよ」
 言われるまま、私は読み慣れない難しい文章を目で追いました。
 読むべき所が鉛筆書きの括弧で閉じられていて、彼が、私の罪悪感を減らそうとしてくれているのが伝わってきました
「ね、保護責任者じゃないんだから、保護すべき法律上の義務はないんだよ」

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