小説

『いちょうの実』菊野琴子(『いちょうの実』宮沢賢治)

 その北風さんも、もういない。あとには冴え冴えと高く青い空と、おっかさんの髪のように黄金(きん)にかがやくお日様。
「坊っちゃん!」
 …と、一番賢くて、形が良くて、いけすかない鴉。
「なあおまえ。ぼくもおまえと同じように空を飛んだよ。すこしだけだったけれど、とてもよいきもちだった。鴉というのはいいなあ。ぼくはもう、二度と空を飛ぶことがない。おまえみたいに、よく飛ぶ、よい鴉が、落ちるぼくを見ても、楽しいことなどないだろう」
 もうすぐ、着くだろうか。大地というのはどういうところだろう。おっかさんは、ぼくらを育ててくれる気持ちのよいゆりかごだと言っていたけれど、おっかさんが揺らすゆりかごより気持ちのよいところを知らないぼくは、まだすこし、こわい。
「ああいやだいやだ。これだから坊っちゃんはいやだよ。私ら鴉が、よし、と、あし、の間でどれだけ苦労しているかも知らないで」
「おや、それは悪いことをした。おまえみたいなきれいな黒い羽、よいものとしか思えなかったんだよ」
 落ちる。遠のいているはずの空は、ますます青くなっていくようだ。
「なあ。鴉。ぼくは、生きるのがこわいよ。ぼくは、伸びるのがこわいよ。
 ぼくを生んでくれたおっかさんと、ぼくと育ってくれた兄弟と、ぼくをあやしてくれた北風さんと、ぼくを追いかけてくれたおまえと、いろんなものをいとしいと思いすぎて、生きることしか考えられないのがこわいよ。これから、おっかさんみたいに、おおきなおおきな身体になるまでの時を思うと、頭がくらくらするほどにこわいよ」
「ほう。では、私が坊っちゃんを喰ってやりましょうか。
まずくて喰えたもんじゃないだろうが、それでも、そのまずさを我慢してやろうと思うくらいには、坊っちゃんのことがすきですよ」
「ははは。鴉。おまえ、ほんとうは、ぼくを喰うつもりで追いかけてくれたんだろう。そうしてぼくを喰って、ぼくをおまえの血肉にして、共に空を飛んでくれるつもりだったんだろう」
 兄弟のなかでぼくだけが、その黒い羽に見惚れてやまなかった。その美しい漆黒をお日様に輝かせて飛ぶことは、どんなにかすばらしいだろうと思っていた。
「私ほど賢い鴉であれば、実を丸呑みしては結局糞と共に落とす他の鳥とはちがって、殻を砕いてから喰うことができますからねえ。今からそうしてやってもいいんですよ、坊っちゃん」
 鴉が、大きく口を開ける。びゅるる、びゅるる、と風が鳴る。

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