小説

『エナイ』和織(『ルンペルシュチルツヒェン』)

『残念、当たらなかったね』
 そして、少年が堪え切れずに泣く様を見たかった。だから今まで、励ますフリをしてきたのだ。猫という生き物に耐えてきた。楽しみを、最後に取っておく為に。
「ねぇ、お兄さんの名前は?」
 少年が言った。猫を抱きしめて、うれしそうな顔で、それが、勝ち誇ったように、自分を見下しているように、彼には映った。
「何・・・・・?」
「僕、この子にお兄さんの名前つけたい。教えて?早くつけてあげないと、かわいそうでしょ?いつまでも名前呼んでもらえないの、かわいそうでしょ?」
 かわいそう・・・・かわいそう・・・・呼んでもらえないの、かわいそう・・・・かわいそう・・・・名前がないの、かわいそう・・・・・
「・・・え、ない・・・・・」
「え?エナイ?エナイっていうの?変わった名前だね」少年は猫を見て言う。「お前、エナイだって。エナイ、エナイ。今日からうちの子だからね、エナイ。ねぇ、エナイさん、僕またここに来ていい?エナイさんも、たまにエナイに会いたいでしょう?連れてきてあげるね。・・・・・エナイさん?具合悪の?ねぇ、どうしたの?エナイさん」
 少年の声が、まるで鎖の呪文のように、彼を追い詰めていく。誰か、だと思われている感覚、それが彼を縛っていく。それは名前だ。誰でもないことが前提の、殺し屋としての相性ではない。誰かが自分を認識する為のもの。人間としての自分を、特定の「誰か」にしてしまうもの。
 きっともう、前には戻れない。
 その予感で、彼は地面を失う恐怖を覚えた。呼ばれたことがないから、今まで生きてこられた。それなのに、自分はきっと、少年から呼ばれることを拒まないだろう。やっと手に入れたと、そう思ってしまったからだ。だから、いつか振り返ってしまうことになるだろうと思った。いつかどこかで呼ばれて、振り返ってしまう。歩いてきたことのない道を。そしてその景色が、少しずつ自分を殺していくだろうと思った。

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