小説

『宇良の亀』木江恭(『浦島太郎』)

 バスタブで子亀を遊ばせている最中、ひっと息を飲む悲鳴を聞きつけて姫子は振り返る。
 禿頭の老人が、床に転がっている宇良の傍で呆然と立ち尽くしていた。
「何だ、遅かったね。聞こえてたんだろ?」
「はい。あの、ひ、姫子さん」
 老人の視線は宇良に張り付き、声は言葉をかき消さんばかりに震えている。
「ああ、それね、死んじゃいないから安心おし。あんたの幻覚見て気絶してるだけだよ」
「そう、ですか」
 途端にほっと安堵を見せる老人に姫子は眉を釣り上げた。
「あんたねえ、殺されかけたってのに何でそんな顔するかね」
「すみません」
「謝って欲しいわけじゃないよ。あのね、こいつはクズだよクズ。最低最悪のDV男だ。だからあんただってこいつから逃げ出したかったんでしょうが」
「それは、それはもちろん、ひどい人でしたけど」
 老人は宇良を見つめたまま、ぼそぼそと呟く。
「毎日地獄で、死んだ方がましだって思ってて、だけど」
 微かに唇を痙攣させて、泣き笑いのような表情を見せる。
「だけど、可哀想な人だったんです」
「――ああもう」
 姫子は聞こえよがしに大きな溜め息を吐く。
「馬鹿馬鹿この大馬鹿、そんなんだからあんな馬鹿亭主に付け込まれるんだよ、わかってんのかい」
「はい、すみません」
「だから別に謝らなくったっていいけどさ、あんた、ああ、もういいよ、好きにすれば」
 姫子は投げやりに手を振った。
 すると老人の姿が蜃気楼のようにゆらりと歪んだ。猫背の背筋がずるりと伸び、髪が生え、全身の骨がばきばきと鳴りながら変形し――やつれた中年の女に変わる。女の痩せた腕や骨の浮き出た脚のあちこちには痣や火傷痕が残り、首には紫色の手の跡がうっすらと刻まれていた。
 女はぼうっとした様子でぎこちなく手足を動かした。

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