小説

『宇良の亀』木江恭(『浦島太郎』)

 しかし老人に声を掛けられて、突如宇良は閃いた。
 昨晩は部屋の窓にもドアにも鍵が掛かっていた。亀が自分で出て行った筈がない。
 ならば亀は攫われたのだ、おそらくはこの女と老人の一味に。そうでなくてどうして、宇良が亀を探しているとわかるだろうか。
 宇良は拳を握り締める。
「何が、何が目的だ。亀を返せ、あれはぼくの亀だ」
「あらやあだ、気弱そうな割に怖い顔も出来るんじゃないの」
「おい、ふざけるのも」
 ゴトン!
 宇良が思わず振り向くと、姫子は意地悪く喉を鳴らして笑った。
「怖がらなくて大丈夫、あれは冷蔵庫の音だよ。自動製氷機から氷を落とす時にああいう音がするのさ」
 わざとらしく優しげに諭されて頬に血が上る。宇良は頬の内側の肉を強く噛み締めた。
 駄目だ落ち着け、冷静になれ。咳払いをして姿勢を正す。
「とにかく、ぼくは亀を返してもらえればそれでいいんです。あんたたちの目的は一体何なんだ、ぼくの亀を攫って何の得があるんだ」
「何さ、さっきから亀亀って、知らないよそんなの」
 姫子はつまらなさそうにカップに口をつけ、それからふと何か思い付いたようににやりと笑った。
「ああ、そうだ」
 テーブルに戻されたカップの縁がべったりと赤く染まっている。
「その亀ってさ、どうせ勝手に逃げたんじゃないの」
嘲笑を浮かべる唇。
「あんたに愛想尽かしてさ」
 こちらを見つめる、きんと冷え切った眼差し。
 その目に宇良は覚えがあった。感情も意思も読み取れない、ぽっかり開いた底なしの穴のような黒さ。眼球はこちらに向いているのに、その目は宇良を見ていない――宇良など相手にする価値もないとでも言いたげに。
 亀はいつもそうやって宇良を見た。床に這いつくばった惨めな姿で宇良をじっと見上げるその無表情な目は、宇良をひどく苛つかせた。

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