小説

『宇良の亀』木江恭(『浦島太郎』)

「――亀」
 宇良はバスタブに駆け寄って中を覗きこみ、悲鳴を上げた。
 亀は確かにそこにいた。
白目を向き、口から涎を垂らして、茶色く汚れた壁面にもたれるように横たわって。
「亀、亀!」
 宇良は上半身を突っ込むようにしてバスタブからその体を引きずり出す。抱え上げた胴はぐったりと重く、力を失った四肢はだらりと支離滅裂な方向に垂れさがる。濁った眼はすでに宇良を映さない。宇良の方を向くことすらない。
「何でこんな、ひどすぎる、亀、どうして」
「どうしてって、あんたさ」
 姫子の声がすぐ後ろから聞こえた。
「そりゃ、亀は丈夫だし長生きだけどねえ」
 宇良の手を優しく取って、亀の首に持っていく。
「叩いたり、蹴ったり、狭い部屋に閉じ込めたり――挙句首まで閉めたら、そりゃ死んじまうよねえ」
首に残った紫色の痣と、宇良の手はぴったり一致した。
「ち、ちが」
「どれどれ、ふうん、こっちは打撲、これは火傷、あれは煙草の痕かねえ。十年だっけ、道理でねえ、古傷が多いとは思ったんだ」
「離せ」
 振り払おうともがいても、姫子の白い手はびくともしない。
「ひどいことするよねえ、全く。あんたそんな、人畜無害ですって顔してさ、こんな風に痛めつけてさ」
「ち、違う、ぼくはただ、だって亀が、ぼくの言うことを聞かなくて、ぼくはただ亀を」
「ねえ、さっきから思ってたんだけど」
 姫子の手がぎちぎちと宇良の手首を握りしめる。痛みがじわじわと腕を伝い肩を上って、宇良の頭蓋骨を締め付ける。
「あんた――十年連れ添った嫁の名前も覚えてないわけ?」
 パリン。何処かでガラスの割れる音がした。
「残念でした。あんた、やっちゃいけないことをやったんだ」
 姫子の冷たい手が宇良の首筋に触れる。
 腕の中の女が、青黒くうっ血した顔を宇良に向けて笑った。

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