小説

『宇良の亀』木江恭(『浦島太郎』)

「言っただろ、あたしは乙海姫子だ。あんたを助けたのは」
 姫子は肩を竦めると、バスタブから子亀を掬い上げて掌に乗せた。
「可愛いこの子をドブから助けてくれた礼さ」
「でも」
「それにあたしは男が嫌いなんだよ。昔痛い目みたからね」
 空いた片手で姫子がバスタブの縁を撫ぜると、きちきちと鼓膜を引っ掻くような軋み音が漏れる。
 姫子が爪を立てているのではない――バスタブが鳴いている。
「だから、こいつらに思い知らせてやってるんだ。それだけさ」
「こいつら?」
「そう」
 ガツン!
 姫子は突然バスタブを蹴飛ばした。大人が十分に手足を伸ばせるほどにゆったりとしたバスタブは、ゴムボールのように吹っ飛んで転がった。
「さ、行きな」
 悲鳴すら上げられずに立ち尽くす女にうっそりと笑いかけながら、姫子はドアを指差した。
「もう、こういうのに捕まるんじゃないよ」
 女は縺れる足で後ずさると、振り返ることなく駆け出していった。

 人気の失せた部屋で、姫子はおもむろに力強く手を叩いた。
「さあろくでなしども、竜宮城に新入りだよ!」
 一瞬沈黙があり、そして。
 ガタン、ドン、バン!
 食器棚の扉が勢いよく開いては閉じる。天井のファンが猛スピードで回り始め、引っ繰り返ったバスタブが賽子のように転がって起き上がり、シャンデリアが目まぐるしく明滅を繰り返す。ティーカップが跳ね、フィギュアが床に雪崩落ち、サンドバッグが独りでに跳ね回り、浅い呼吸を繰り返す宇良を囲む。
「おやおや、みんな嬉しそうだ」
 姫子はうっとりと微笑んで子亀にキスを落とす。
「ねえ――太郎さん」
 甘い声で囁いて、軋むソファに身を預けた。

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