小説

『抜け小鈴』清水その字(古典落語『抜け雀』)

 雀と一緒にしばらく絵を眺めていたが、彼女が出て来る様子はなかった。スケッチ帳を畳む素振りをして見せると、雀はそそくさと紙の中へ飛び込んでくる。止まり木に乗ったのを確認し、俺は倉庫を後にした。



 帰りの電車から降りる頃には、もう日は落ちきっていた。街灯に照らされる住宅街を、ブロック塀にそって歩く。辺りに人気はなく寂しいが、安全でもある。俺が小学生の頃には道端に飼犬の糞が放置されていて、昼間でも足元に注意して歩かねばならなかった。
 描いた絵が抜け出すようになったのはその頃である。自分に不思議な力があると気づいた俺は、それを正義のために使おうと考えた。とはいえ小学生時代の話なので、正義と言ってもロクなことはしていない。毎日心を込めてゴキブリの絵を描き、後始末をしない飼い主の家に投函しただけだ。今では反省しているが、せっせと続けるうちにその家は引っ越してしまい、おかげでこの辺りは清潔になった。

 過ぎ去りし腕白小僧時代に思いを馳せながら、夜道を歩く。いつも通りの静かな道だ。だが今日はいつもと違うことが起きた。
「こんばんは」
 不意に、後ろから声をかけられた。鈴の鳴るような、という表現が似合う、可愛い声だ。
 それを聞いた途端、体が固まった。声を聞いたのは初めてだが、本能的に分かった。振り向かずにいると、足音がゆっくりと近づいてくる。俺の背後から右側へ出て、そして正面へ回る。赤い着物の裾が揺れ、綺麗な鈴の柄が輝いていた。
「前にもお会いしましたが、私は貴方の雀と同じです。怖がることはありません」
 彼女は優しい笑みを浮かべた。街灯の明かりの中に立っているのだが、まるで彼女自身が光を放っているかのように見える。光源があるとはいえ、夜道なのにあまりにもはっきりと姿が見えるのだ。白くて綺麗な頰も、澄んだ瞳も。
「私は小鈴と申します。お願いがあって参りました」
 絵の少女はうやうやしくお辞儀をした。
「俺に……?」
 緊張する中で、辛うじて声が出る。絵が動くのはよく見ているが、その絵と話をし、意思疎通ができるというのは初めてのことだ。彼女の不思議な美しさと相まって、肩に力が入ってしまう。

1 2 3 4 5