小説

『金の缶、サイダーの缶』笹田元町(『金の斧、銀の斧』)

 始業時間から二分ほど経って開いた扉に(顔は前を向けたままで)視線をやると、そこには世界史担当の若い女性教員の姿があり、藤田先生が体調不良で休みであると言いながら教卓につくなり、二枚のプリントを終えた者から自習として良い旨を告げた。僕は右隣の列の三人前に座っているみさこちゃんを見やったけれど、こちらを振り返る様子はなかった。
 終業のチャイムが鳴り、席で伸びをしているとみさこちゃんが僕の方にやって来て、内緒話みたいな声色で「引き分け。ワリカン」と笑いかけた。

2002年7月27日(土)
 地下街に繋がる改札を抜けてきたジーンズにTシャツのみさこちゃんは僕を見つけるなり、右手を上にピンと伸ばして上半身ごと大きく右左に揺らした。
 食事だけもなんなのでという感じで映画を観に行くことにもしたのだけれど、少年魔法使いが活躍するその映画はまったく記憶に無くて、映画館で右側の席にみさこちゃんが「いる」感覚だけを今でも思い出すことができる。
 チェーン展開のイタ飯屋でパスタや薄いピザやらを注文した後改めてみさこちゃんの顔を(ばれないように)見つめると、学校での顔より頬紅が若干濃いことに気が付いて、僕は布団に潜って携帯を開いたときと同じような静電気に覆われた。薄い生地のTシャツに黒いキャミソールが透けていた。僕達は何か核心を避けるようにクラスメイトのことなど話しながら、トマトソースを口の周りにこびり付かせた。
 約束どおりワリカンで支払いを済ませて地下街に降りた夜9時前、改札が視界に入った頃、みさこちゃんの家の方のどこか適当なところまで自転車で送っていくと思い切って提案してみると、「いいねー」とみさこちゃんは応じて、僕達は再び地上に飛び出した。その半年ほど前に買った自転車に元々荷台は付いていなかったけれど、いつかそういう日が来ると自ら取り付けたことをみさこちゃんには言わなかった。梅雨明けすぐの夜はまだ湿気が多くて、でも少し涼しい風が吹いていた。
 腰に添えられたみさこちゃんの手は気にしていないフリで目抜き通りを北へ自転車を漕いだ。十五分ほどして本来みさこちゃんが地下鉄を乗り換える駅の出入口に着いたところで一度自転車を停めて後ろを振り返ると、「もうちょっと行こう」と何も聞いていないのに返事があって、みさこちゃんの笑顔があった。
 乗換の駅から東に進路を取り、さらに十五分走ったあたりが僕達の通う高校で、高校は城下の大きな公園に隣接している。僕はおもむろに公園に向かい、その外周を取り巻くランニングコースを兼ねた道路を少し速度を上げて一周し、それから公園中央に程近い噴水広場へ入った。夜10時前の噴水広場に僕達以外の人は無くて、自動販売機で缶のサイダーを二本買ってから噴水のへりに腰を降ろした。ライトアップされたお城が背景にあった。

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