と声がして、男は去ったようだった。カーテンのすき間から、男がぼくの部屋の窓を見上げているのがうかがえた。にこやかに手を振っているのも見えた。ぼくはなぜか嫉妬に似た気持ちを覚え、レポートに集中することにした。そういえば、あの男が帰った時、足音がしなかったことに気がついたのは、次の日の朝、歩くたびに派手にきしむ外階段を下りている途中だった。窓の下に、男の姿はもうなかった。
次の日、窓の影はいつもよりうつむき加減で、影の輪郭も、ぼんやりと溶けてしまいそうにはかなげだった。手を振ってみると、彼女は小さく右手をあげてそれに応えた。はたして昨日の言葉通り、男は音もなくやってきて、ぼくの部屋のドアを叩いた。ぼくはドアを開けなかった。しかし男はドアの外で、声を張り上げた。
「失礼は承知で申し上げます、もう部屋を空けてくれとは言いません。せめて、窓だけでも、窓だけでも、私にお譲りいただけないでしょうか?」
男の声は、どんどん大きくなり、鬼気迫るものになってきた。しまいには、
「時間がないんです、お願いします、お願いします!」
と泣き叫ぶものだから、ぼくは根負けして、ドアを開けてやった。
「話はきいてやるから、終わったらとっとと帰ってくれよ」
男は、昨日と同じ作業着姿で、何度も頭を下げながら、玄関の塩をひょいとまたぐと、部屋に入ってきた。グラスをふたつ取り出し、冷蔵庫にあったコーラを注いで、がらがらと氷をつっこんでいる間、男は窓にぺたりと体をくっつけ、微動だにしなかった。
ぼくはちゃぶ台にコーラを置いてすすめたが、男は窓にくっついたまま、お気づかいなく、こちら側のものは私にはもう必要ないので……とごにょごにょ言うので、ぼくは窓辺にコーラのグラスを置いてやった。よく見ると、男は左手をサボテンの上についていたが、気にしていないようだった。男は恐れ入ります、と軽く頭を下げ、窓にはりついていた。
男は、ぽつりぽつりと話し始めた。
私は昔この部屋に妻とふたりで住んでいました。工事現場で働いていた私は、遅番の日など帰りが深夜になることもあったんですが、妻は起きていて、私の帰りを待っていてくれました。他の部屋の明かりが消えてしまっているなか、ぼくらの部屋だけ明るくてね、妻の影がうつっているんです。ぼくが手を振ると、妻も手を振りかえしてくれました。きつい現場でどんなにくたくたになっても、妻が待っていると思うと、足取りも心も軽く感じました。ところがある日ね、工事現場で事故が起きたんです。クレーンでブロックを積み上げてる時、ケーブルがぐらっとすべって。ブロックは、旗を振ってクレーンを誘導していたぼくの真上に、まっさかさまに落ちてきました。