ニャーンと猫が鳴いた。それは私の声だった。けれどもキョウコは応えてくれた。
「小川くん…」
ここで私が逃げ出せば、番組は成立しないだろう。野だなぞ、どうなっても知らない。私だって、どうなろうとも構わない。だが、キョウコを困らせる訳にはいかない。私は純愛だったのだ。そして今でも、純愛なのだ。
漱石は、座敷間で梅さんに按摩されながら寝入っている。対象的に、緊張した面子がそれを眺めていた。背筋を伸ばして正座した鏡子、青頭の額に浮いた汗を拭く書生、その腕にしっかと抱かれた子猫、すなわち私である。
たとえ黒猫といいはるにしても、仕事中の梅さんに話し掛けるわけにはいかないし、漱石が起きればすぐにばれる。理想は按摩の手が空き、なおかつ漱石がまだ眠っているという状況だが、福猫発言の瞬間には起きておいてもらわないといけない。そのタイミングが非常に難しい。私たちはじりじりしながら機を窺った。
「うん? どなたか猫を連れておいでか」
どきりとした。唐突に按摩が手をとめてそう呟き、もこりと漱石が起き上がった。いきなり万事休すである。
「他の感覚が鋭くってね。日なたみたいな子猫の匂いがしますわい」
ほんとうだ何処で見つけてきたのかね、と漱石が首を揉みつつ野だに聞く。ええまあ玄関に迎えにあがったさいに、としどろもどろになって答えている。梅さんが続ける。
「わしは大の猫好きでね。家にもあふれんばかりに飼っておりますわい。これでも一匹一匹の区別がつくんですぜ」
また、どきりとした。そんなものかね、と漱石が相槌をうつ。
「声と匂いと、手触りですかな。どれ一つ」
といって手を差し出す。野田くん、と促す漱石。私はぐいと明け渡された。梅さんに背を撫でさすられる。
「ときに、毛色は?」
やばい。漱石が口を開きかけた。
「黒でさあ」
機先を制した野だが、そう大きな声で言った。
「ええ確かに黒猫ですわ」
間髪いれずにキョウコも言った。私も努めて黒猫っぽい声で鳴いた。漱石はいぶかしげな顔だ。なんだか裸の王様じみてくる。だが私は王様ではない。我輩は黒猫である。
「いや、まったくもって黒い奴だ。まっくろけですよ」