小説

『座布団』村崎香(田山花袋『蒲団』)

「付き合っている人はいないの?」
「何を聞いてくるんですか。ご想像にお任せします」
 微笑みながらも微妙に目線を俺から外したのを、俺は見逃さなかった。付き合っている人がいないなら「いない」とはっきり言いそうなものなのに、そうもしなかった彼女というのは、やはり男がいると考えても良いだろう。
 そう思うと、残念というよりも、悔しいという気持ちが湧いてきた。俺は彼女とは十以上も年が離れている上に、妻子もある。初めから彼女を自分のものにすることはできないとわかっていたし、彼女とどうにかなろうと考えようとはしなかったが、それにしても彼女に男がいるというのは俺を不快な気持ちにさせた。社内で仲の良い同僚として、先輩と後輩という関係で十分に満足できていたし、彼女に男がいようと俺に妻子があろうと会社内にいるときだけは仲の良い二人でいられたし、これからもそのように続いていくことだろうと思えていたのが、急に色褪せた風景画のように思えてきた。
 できることならば、彼女と一度でいいから、恋人の行為に及びたい。その思いが夢想を呼び、彼女を隣にしながらも資料を追う振りをしながら妄想に耽るようになった、そんな秋の時分だった。
「すみません、ちょっと休憩室で休んできますね」
 俺と彼女の二人で、次の新商品に関するアンケートの回答を、資料にまとめていたときのことである。既に時計は八時を回り、他の社員はほとんどが退社してしまっている。
「何かありましたか?」
「少し頭がぼんやりしてしまって。少しだけ、休んできます」
 どことなくふらふらとしながら休養室に向かった彼女のことを心配したのは言うまでもない。彼女が戻ってくるのが待ち遠しかったのも、五分どころか三分置きくらいに時計を確認したのも、彼女が隣にいなければ仕事が手につかないからだ。
 三十分待って、俺は椅子から立ち上がった。彼女の椅子に置いてある座布団が、主の不在にそろそろ寂しくなってきたはずだ。それが言い訳になるわけもないが、俺は休憩室の扉を開けた。以前は資料置き場として使われていた部屋であるが、今は整頓され、机と椅子とソファー、飲み物の自動販売機が置かれている。多くの社員が食事などの息抜きに使っている部屋であるが、流石に夜となると、人の気配は感じられない。

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