「あら、どうしたのその帽子。こっちが本物よ。ほら、そんなばっちいの、捨てなさい」
「触るな！ わしの子どもだ」おじいさんの口から、泡のように血が吹きだして、我に返った父親は殴るのを止めた。おじいさんはよろよろと立ち上がろうとした。父親はおじいさんのぼこぼこになった顔から逃れるように手であとずさりして、興奮した息を整えようとしたが、塗ったように赤くなった拳を見て、色を消そうと地面にこすりつけた。
「触るな」おじいさんの声はほとんど出ていないし、足元も頼りなく、いまにも倒れてしまいそうだが、怒りがおじいさんを支えていた。
「触るな」
おじいさんはほとんど転ぶように体を傾けて、キオに話しかけている母親から子どもを奪おうとしたが、母親は手を離そうとしない。
「あんたたちの子どもは、死んだんだ」
母親がすべてを拒絶するように低く、切実にうなった。
「わしのキオだ！」
おじいさんが力を振り出して、キオを奪った。クジラの帽子が落ちていく。母親の手がキオの鼻先に触れて、なにかが剥がれる音がした。
おじいさんはボロ布の帽子を被せたキオを背負うと、胸を苦しげに抑えながら歩いていった。
キオの目の下に、涙のように血が流れている。おじいさんの血か、母親の血か。母親の指先から血が出ていた。手のひらのなかにはキオの鼻があった。
母親の涙がうなり声といっしょに、鼻にどぼどぼと落ちていく。夫が血だらけの手で妻の背中をさすった。
おじいさんは無我夢中で歩いた。服の裾で血を隠していたので、通勤に向かう人びとはだれもおじいさんのことを見なかった。見ないように意識した。おじいさんのことを見えない者のようにしてすれ違い、おじいさんの背中を一瞬、睨むように見て早足で仕事に向かった。通りではおじいさんだけが流れに乗れていなかった。キオは守られるようにして抱かれ、おじいさんの激しく、弱い心臓の音を聞いていた。
