小説

『蛇と計画』和織(『アダムとイヴ』)

 相田生という人間は、まさに姉とは対照的な、ものすごくまともな人間だ。特に親しかった訳ではないけれど、少し会話をすれば、彼の誠実さがわかる。それに、普段の物腰の柔らかさからは想像しにくい、ふとしたときに見せる判断力で、実はとても強い人間なのだろうとも感じた。偏りなく、自分の考えというものがしっかりとあり、それを信じている人間。自分の考えという観念すら持たなかった姉には、知れば知る程、彼のまともさは衝撃的だったに違いない。初めて姉と生が話しているのを見かけたとき、その場には母も一緒にいた。だから、病院へ寄った医院長の義理の娘と孫に、気を使って相手をしてやっているのだろうと、そんな風にしか思わなかった。それが、いつの間にあんなことになったのか、確かあの時はもう、姉の婚約は本決まりだった筈なのに。

「ごめんなさい突然。拓巳、いつも忙しいのに」
 小走りで近づいて来た僕に、姉はそう言った。その言葉で、僕は初めて、彼女の変化に気づいた。その日、姉は僕の住むマンションの前で待っているのだと連絡をしてきた。珍しいことだったし、夜にマンションの前で姉を一人で待たせているというのは、とても冷や冷やさせられる状況だった。もう帰るところではあったものの、急いでマンションへ向かった。汗だくになった僕にかけられた姉のその第一声に、思わず彼女の顔をまじまじと覗き込んでしまった。姉は、家族の中でいつでも優先されてきた存在だったし、彼女自身もそれを当然だと思っていた。だから僕のプライベートな時間に対して配慮を見せることなんて、それまで一度もなかったのだ。
「どうしたの?」
 固まっている僕に姉が言った。
「いや、早く入ろう」
 コーヒーを飲めない姉にミルク入りの紅茶を出してやると、彼女は「ありがとう」と言ってそれを一口飲んで、小さく息をついた。思い詰めた顔をしていた。それまでにも彼女が思い詰めた顔をすることはあったが、それらは一様にヒロイン的なもので、あまり問題の気配が感じられなかった。しかしそのときの彼女の表情は、何かに向かい合おうと必死になっている、現実味のあるものだった。
「何があったの?」
 少し緊張しながら、僕は言った。

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