食器を片し終えた頃には、夜の十時を過ぎていた。ふと玄関を見ると、そこには無機質な鉄の塊が外を遮るように立ちはだかっていた。その左側についている取っ手が回って、昨日のは嘘だと言って入ってきてはくれないか。くだらないと分かっていても考えずにはいられなかった。
彼女は思った。こんな辛い夜は久しぶりだ、と。
きっと守るためではなくて、泡になった方がマシだったのだ。
かわいそうな、人魚姫。
彼女は、もう何度目かの今日のような日を知っていた。泡になれないのなら、想い出のひとつひとつに触れて荒療治していくしかないのだ。カレーも音楽も彼の体温も、すべて吐き出して拾い上げて飲み込んで、血や肉になるまでそれを繰り返すのだ。
そういえばあの日のカレーの香りはとても良かったのを彼女は思い出した。あまりおいしくなかったのに、二度と食べられないと思うと恋しくなる味だった。
毒を盛る事も、泡になることも、もったえない事のように思えた。
彼女の恋愛は、辛く脆く刹那的で、そして幸福そのものだった。
カレーの香りが広がる部屋で、悲しさと幸せが入り交じったこの部屋で、彼女は最後に少しだけ泣いた。