小説

『泡になる』石井里奈(『人魚姫』)

 それはぽろぽろと溢れてゆき、ひとつひとつ大切なものが着実に失われていくようだった。
 まるで、抱えていた紙袋の底が破れて中身が雪崩れ落ちるように、止まらぬ勢いで地面に滑り落ちて行く。落ちても落ちても、止むことを知らないのだ。それほど、沢山のものが彼女の中には詰まっていた。
 彼女は最初それをただぼうっと眺めていたが、十二分に時間が経つとゆっくりと拾い始めた。
 それは綺麗な宝石であったり、紙の切れ端であったり、写真や得体の知れない何かだったりした。彼女はそれらを丁寧に、時には想いを馳せたりして掬い上げる。一度忘れたことを思い出すように、慎重な手つきだった。
 やがて両手いっぱいになったそれを愛おしそうに見つめ、そして静かに呑み込み始めた。口元でそれはユラユラと泡のような煙のような曖昧なものに変化して体内へと吸収されていく。
 そうしてまた、大切だった何かをひとつひとつ丁寧に拾い集めるところから始めるのだった。

 彼女は失恋した。
 昨日、予てから付き合っていた彼に別れを告げられたのだ。
 恋人との別れとは実にあっけないもので、一年以上続いた彼の最愛の人という立ち位置は「別れよう」「もうやっていけない」「他になにも言うことはない」の三言で幕を閉じてしまうのだ。
 男とは勝手なもので、親に紹介した彼女の立場や、今日が火曜日で明日からも仕事があることや、いつの間にか彼の好みの音楽が彼女の好きな音楽になっていることなどいつもお構いなしだ。
 そうしてあっさりと別れを迎えたのだった。

 「私の前世は人魚姫なんだわ」
 一人暮らしにちょうど良い大きさの、白の小洒落たテーブルに突っ伏して彼女は言った。仕事から帰宅して部屋に荷物を置いたとたん、ひどい喪失感に襲われたのだ。きっとそうに違いない。遠い昔から、そういう定めの元に生まれているのだ。何度生まれ変わろうと、恋人と永遠に結ばれることはないのだ。そう思いたくなるほど、彼女の今までの恋愛は辛く脆く刹那的だった。
 「なれるのなら、喜んで泡になるのに」
 いつになく乙女的な自分に自嘲気味になりつつ、彼女は立ち上がる。そのままキッチンへ移動して、冷蔵庫を開けた。
 こういう日はなにかに没頭するのが一番だと、彼女は知っていた。それは例えば料理だったりもする。

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