小説

『吾輩は坊ちゃんである』太郎吉野(夏目漱石『吾輩は猫である』『坊ちゃん』『こゝろ』『三四郎』)

 清が死んでからは、近所の婆さんを通いで雇い女中働きをさせている。清ほどではないにしろ家政全般如才なく重宝してもいるのだが、この婆さんがやたらと嫁の世話をしたがるには閉口している。
 「ご立派なお勤めでご出世なすっても、奥様がいらっしゃらないじゃ片手落ちじゃありませんか。奥様お貰いになって初めて一人前でございますよ」と万度ばんたび吾輩に縁談を持ち込む。その度「まだ要らぬ」「要らぬ用だ」と断るのだが、婆さんは凝りもせず「お貰いなさいまし」「お貰いなさい」と暇さえあれば釣書つりがきを差し出してくる。
 ずっと独り身を通すつもりはさらさらないが、今はまだ一人が気楽でいい。
 だが、いざ嫁を貰おうとしたときに、吾輩に名前がないのが支障になりはすまいかと、ふと一抹の不安が胸を過る。
 今にして思えば生前の清は、どうも漱石先生から吾輩の名を伝えられていた節がある。だが生来の面倒くさがりで聞かずに捨て置いてしまった。こんなことならと今更ながらに思わないでもない。今となっては最早吾輩自身が墓に入った後に、そこで清に問いただすしか術はない。

 清は死ぬ前日吾輩を呼んで、坊っちゃん後生だから清が死んだら坊っちゃんのお寺へ埋めて下さい。お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと言った。だから清の墓は小日向の養源寺にある。
 死んで太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。さすれば吾輩の名も死ななければ得られぬのもまた道理である。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。それもまたありがたいありがたいと思うしかない。

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