小説

『吾輩は坊ちゃんである』太郎吉野(夏目漱石『吾輩は猫である』『坊ちゃん』『こゝろ』『三四郎』)

 吾輩はなにが嫌いと言って田舎者が大嫌いだ。なので九州の山奥育ちのくせに帝大出を鼻にかけ、いつぞやは女に振られてびーびー泣いておったくせに、今やそんなことはさも知らぬげに、やたら尊大ぶって喋るたびに薄い髭をしごく此奴は、とりわけ大嫌いだ。かつて松山で赤シャツや野だいこにしてやったように、ぽかぽかと拳骨をくれて卵をぶっつけてやりたい衝動に駆られるが、さすがに今は自制できてはいる。
 しかし三四郎から「坊ちゃん」と呼ばれる度、その自制の鎖がぷちんぷちんと千切れる音がする。このままではあの松山の二の舞にもなりかねず、それもこれもその因は、吾輩に名前がないということに尽きる。
 その三四郎奴にしてから「小川三四郎」という立派な姓名を与えられているのである。それが故か、あの田舎者が吾輩を坊ちゃんと呼ぶときのその目は、傲然と吾輩を見下しているように思えてならぬ。あの九州の山猿にすら名があるのに、なぜに吾輩には名がないのか。今となっては、これまた既に鬼籍の漱石先生を恨むばかりである。

 三四郎奴とは、しかし毎日顔を突き合わすわけではない。まあ、毎日顔を突き合わすなど真っ平御免だが、たまに、しかも偶然行き会わすくらいであるから我慢もできる。
 もっと困るのは、近所の餓鬼共である。
 「あ、坊ちゃんだ。坊ちゃんが歩いてやがら」と道を歩いているだけで、わらわら群れ集まっては、一斉に囃し立てるのだ。
 「坊ちゃんぼちぼち団子食い、坊ちゃんぼちぼち蕎麦食って、清さんおらんでよよ泣いて、坊ちゃんぼちぼち嫁欲しい」
 などとふざけた戯れ歌まで合唱に及ぶ始末だ。
 怒って追い払おうものなら、此奴等はますます面白がって繰り返すに違いないことは松山で経験済みだ。相手にならず泰然自若を決め込んでいるが、これも結構疲れる。
 もっとも、近所の餓鬼共までが吾輩を坊ちゃん呼ばわりするのは、清の責任に負うところも大である。
 清もまた、吾輩をずっと坊ちゃんと呼び続けて死んだ。清がいつまでも坊ちゃん坊ちゃんと呼ばわるものだから、近所の餓鬼共が真似するのだと生前の清には何度も言ってきかせた。その度、「あれ、坊ちゃんは坊ちゃんでございませんか。他人がなんと言おうが清にはずっと坊ちゃんでございます」
 しれっと言ったものだ。

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