小説

『彷徨えるプリンス』上田未来(『白雪姫』『赤ずきん』『ヘンゼルとグレーテル』)

 そばまで来ると、あまい匂いがその周囲に立ち込めていた。どうやらこの家から発しているらしい。王子はその家の壁を触ってみた。それはふんわりと焼かれたパンのような色をしている。感触もパンのようだ。材質はかなりやわらかい。王子はその一部を引きちぎってみた。簡単にそれは取れた。その断片を手に取ってみてもやはりパンのように思える。王子は思い切ってそれを口に入れてみた。味も……パン。王子は少し離れてあらためてその家を眺めた。屋根はチョコレートを塗りたくったように見えるし、壁の上の辺りにはキャンディーが埋め込まれているようにも見える。これは――お菓子の家?
 ――なんて不思議な家なんだ。
 もしいままでと同じ生活を繰り返していたら、間違いなくこの家とは出会えなかった。
 ――素晴らしい。
 世界はこんな不思議なものに満ち溢れているんだ、と王子は思った。まったく知らなかった。
 お菓子の家から草を踏みしめたあとが続いていた。王子はそこを歩くことにした。お菓子の家がようやく見えなくなったころ、地面になにか白いかけらが落ちているのが目が留まった。なんだろうと思いながら、王子はそれをつまみあげた。自然のもののようには見えない。少なくともこれまで森の中で見たことがない物質だ。この感触……またパン? 嗅いでみると、やはりパンの匂いがした。が、さきほどのパンとは違うようだ。あまい匂いはしてこない。
 王子はそれを口の中に放り込んだ。
 何度か噛むと次第に味がしてきた。
 それは素朴な味だった。王子がこれまでに食べたことのないパンの味だ。王子のもとには国中のパン職人が毎日、競うようにパンを献上していたけれど、こんなパンは食べたことがなかった。味がほとんどせず、透明感があって、スカスカした中身がまるで空気を食べているようで、新鮮な感覚だった。
 ――なんて斬新なパンなんだ。
 王子があたりを見まわすと、その少し先にも同じようなものが落ちている。王子はそこまで歩いていって、そのかけらも食べた。やはりスカスカパンだ。その少し先にもそれが見える。王子は次から次へとその白いかけらを見つけては食べ歩いた。夢中になってそれを繰り返すうち、いつのまにか木立は少なくなっていき、目の前には一軒のあばら家があった。その家の手前でパン屑はなくなっている。
 この家の主がパン屑を森に落としていったのだろうか? 世界には不思議なことをする人がいるものだ。目的がさっぱりわからない。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10