これもやっぱり、昔々のお話だ。
昔、昔、あるところに、足抜けに失敗した一人の遊女がいた。
足抜け、というのは、つまり脱走のことさ。遊女というのは、莫大な借金のカタに遊郭に売られてきて、金を返すために己の体を売る。しかし辛い暮らしに耐え兼ねて、金を返し終わる前に逃げ出そうとする者も絶えなかった。大概は、惚れた男と一緒にな。しかし遊郭は頑丈な壁と大勢の見張りに囲まれていたから、足抜けに成功する者はほとんどいなかった。
この遊女もその一人だった。脱走を企てた罰として両脚の腱を切られ、軟禁されていた。ああ、昔話というのはときに驚く程残酷だな。
名を、おつるという。
同じおつるでも、こちらは泥水をすするようにして生きてきた苦労人。それ故に人の痛みに聡く、周りを思いやることのできる穏やかな娘だった。この大人しい娘が危険な足抜けを試みたというのだから、恋の熱情とは恐ろしいものよな。足を痛めつけられてからは幾分口数が減り沈みがちになったものの、その優しい性根が変わることはなかった。
このおつるに密かに恋心を抱いたのが、こちらも同じ名前の亀助だった。この亀助はおつるの勤める遊郭の下働きで、色町には似つかわしくない不器用で鈍間な朴念仁だった。
亀助はある日、おつるに己の恋心を打ち明けて、一緒に逃げようと告げた。
おつるは亀助の心を受け入れなかった。足抜けに失敗してから、おつるはもう誰も好きにならないと決めていたのだ。
しかし亀助は、何もおつるに応えて欲しくて己の恋情を明かしたわけではなかった。愛しい女が辛い境遇にいるのが堪えられなくて、ただおつるを逃がしてやりたいだけなのだと、額を畳に擦りつけて乞うた。
全く、亀助は阿呆だった。しくじれば、亀助はまず必ず殺される。そればかりか、二度目の足抜けとなるおつるも今度こそ命を取られるだろう。亀助の言い分は、鈍間の己に命を預けて欲しいと言ったも同然だった。
どうしておつるが亀助の願いを聞き届ける気になったのか――或いは、己の境遇が既に、生きながら死んでいくようなものだと悟ったからかもしれないな。
新月の夜、亀助は見張りの隙をついておつるを連れ出した。歩けないおつるを背負い、暗い山道を進んでいった。峠の向こうには大きな宿場町があり、そこまで行けば大勢の旅人に紛れられると考えたのだ。
しかし幾ばくか進んだあたりで、亀助は早くも追っ手がかかったことに気がついた。幸いまだ見つかってはいなかったが、複数の足音や剣呑な会話が耳に入ったからだ。亀助は体こそ大きかったが動きが鈍重で、おまけにおつるを背負っているから足の進みが遅かった。追いつかれたら一巻の終わりだ。亀助は必死に歩調を速めた。