こうなってはもう、恋の熱も裸足で逃げ出す地獄の淵に追いやられたも同然だ。おつるを背負ってちんたら歩いていたんじゃ、自分は捕まって八つ裂きにされてしまう。
男たちの足音が遠のくやいなや、亀助は背中にしがみつくおつるを突き飛ばした。
もうやってられねえ、おれは抜ける。さっさと家に帰るんだな、この阿婆擦れ!
おつるは、恋人の豹変についていけなかった。亀助はそれまで、菓子のように甘くふわふわした言葉でおつるを誉めそやしてきたからだ。
あんた、何言っているの、冗談はよしてよ。着物の裾にすがるおつるの手を、亀助は容赦なく振り払った。
近寄るんじゃねえ、この疫病神の我侭女。店が手に入らないんじゃあ、てめえみてえな面倒な女なんぞ願い下げだ!
亀助は踵を返してさっさと歩き出した。おつるは夜の森に独り取り残されることに怯え、亀助の足に縋り付いた。
あんた、待って、置いていかないで!
五月蝿え!
泣き叫ぶおつるを振り向きざまに蹴飛ばして、亀助はその場を逃げ出した。
そこら中から、男たちの低い声と草を掻き分ける音が聞こえてくる。おつるが場をわきまえずに大声で騒いだせいで、追っ手が亀助たちの方に集まり始めたのだ。無傷で帰れる保証のあるおつるはともかく、亀助は一刻も早くその場を離れなければ命が危うい。
亀助はもう必死になって、大股でずんずんと進んだ。獣道を突っ切り、藪を抜け、一心不乱に足を動かした。
酷使する体は熱くなっていくのに、背中を冷たい汗がだらだらと流れ伝う。
もっと早く、もっと先に、もっと進まないと、追いつかれる!
耳元にいつまでも、おつるの泣き声が張り付いている。
あんた、あんた、戻ってきてよ!あんた!
亀助は足を速めた。無理を強いられた脹脛や腿が半ば釣って、痛みを訴える。
駄目だ、もっともっと早く進んで、振り切らなければ。
亀助はがむしゃらに足を動かす。
もっと、もっともっと、もっともっともっともっともっともっともっともっと遠くへ!
――ふと気がつくと、周りに人の気配は無くなっていた。
亀助は棒のようになった足を止め、深く息を吐いた。額や首筋から、玉のような汗がぼとぼとと落ちた。