小説

『私だけのエナメル』柿沼雅美(『赤い靴』)

 玄関で鍵が開く音がし、母親が帰ってきたのが分かった。テレビをつけっぱなしでリビングに座ったままの私に、母親は早かったのね、と言った。
 寝室にネコ用バッグと上着を置いて出てきた母親は、デパ地下でおいしそうなごはん買ってきたの、と嬉しそうに笑った。お父さんも遅くならないと思うから待ってようか、と言う母親に、そうだね、と返した。
 母親は私の座っているソファに紙袋を置いた。由実に買ってきちゃったぁ、とはしゃぐような口調で言う母親に、開けていいのー? と私は笑顔を作り、紙袋を開けた。
 クリーム色の紙袋の中には、黒い箱に金色の文字で普段は買わないブランド名が印字されていた。箱を開けると、ワインレッドに近い深みのある赤色の靴が入っていた。手に取ると、エナメルが吸い付いて、手のひらの体温が靴に移っていくようだった。綺麗、と言うと、母親は満足そうに、でしょう? と笑った。いつも黒の靴ばっかりだから、と言う母親は、立ち上がる私と入れ替わるようにソファに座り、そのまま眠そうに体勢を崩した。その姿に、私は、心から大事にするね、と思った。
 エナメルの赤い靴を早速玄関に置くと、年月が経ちくすんだオフホワイトのタイルの上で、靴がホログラムのように光って見えた。これを履いて街を歩こう、好きな人に会いに行こう。コートやタイツが黒色でもこの靴があるだけで明るく魅力的に見える気がした。
 私は、そのままそっと、母親の寝室に入った。
 ベッドにはネコ用バッグが置かれ、隣には人形が横たわっている。その足には、子供用のエナメルの赤い靴が履かされていた。私とお揃いの靴だ、と分かった。誰かにナイフを突き立てられたような冷や汗がでる。
人形の足をつかみ、靴を脱がせようとしてもぴったりはまっていて脱がすことができない。それどころか、はじめから靴が作りつけられていたかのように吸い付いて一体と化していた。
 足首をぐちゃぐちゃにひっぱっているうちに、何かスイッチを触ったのか、人形が踊るように歩き出した。くるみのような丸い目をぱっちり開き、口元に笑みをたたえている。母親がこれを見たらなんと言うだろう、歩いた歩いたと手を叩いて喜ぶだろうか、それとも、人形まで理解の及ばないことをしたと嘆くだろうか。
 叫びたい気持ちが全身に走った。私は、ただ今日まで、何か自分を変えたくて、私の大事な人を変えたくて、好きな事をしていたくて、それなのにそれが出来ない私の前で、今、人形はこんなにも楽しそうに踊っている。堂々としてまっすぐに歩いて、私よりも人形の由実のほうが生きていけばいいんだという気がして、ひきちぎりたくなった。
 私はキッチンに走り、流しの扉内側に立てかけられていた長い包丁を掴んた。再び母親の寝室に走り、人形を倒し、床におさえつけた。人形の顔は大人しくまぶたを閉じたが、赤いエナメルの靴を履いた足は、しぶとく前へ前へ歩こうと動いていた。ミミミミと電子音がする。私は左手をめいっぱい広げ、人形の両足を抑え、包丁で膝から下を切断した。

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