小説

『T大学文学部のメロスと申します。』伊藤佑介(『走れメロス』)

 メロスは焦った。このままでは落とされてしまう。しかし、そこであるアイディアを思いつき、面接官にこう言ったのであった。
「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許して下さい。その間に私は学生時代頑張ったことをつくります。そんなに私を信じられないならば、よろしい、私と同じ大学で御社の採用に応募したセリヌンティウスという男がいます。私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、ここに帰って来なかったら、あの友人を落として下さい。たのむ、そうして下さい。」
 メロスはその日の夜のフライトですぐに成田を発ち、ベトナムへと向かった。なぜベトナムに行くのかと言われれば、その理由は単純で、先日落とされた会社の採用ホームページで、新入社員の一人が「学生時代何をしましたか」という項目にベトナムでボランティアをしていましたと答えていたことを覚えていたからだ。自分もベトナムへ行って何かを成し遂げよう。何がいいか。自分の長所は人を疑わず正直なところだ、とメロスは思った。ベトナムでも人を疑うことを決してせず、正直でいよう。人に優しくしよう。一人が優しくなれば、二人が優しくなり、それがどんどん増えていき、世界全体が優しくなる。なんて素敵なことだろう。そう、メロスの脳内はゆるふわお花畑なのであった。ゆるふわお花畑でつかまえて。社会の現実はむしろメロスを崖に突き落とすだろう。ズドン。
 メロスはベトナムのハノイ空港に到着すると、早速財布をすられた。自分の財布が盗まれるなどということを、疑ったことなどなかったのだ。たしかに埼玉ならばそれでもやっていけただろう。しかしここは外国だ。東南アジアだ。とにかく泊まるところと食べ物を確保しなければならない。しかし一文無しの日本人が何を言っても、門前払いされるだけであった。メロスは絶望した。ズドン。
 いや、まだまだ大丈夫、これから日本へ走って引き返せば、約束の刻限までには十分間に合うはずだ。是非とも、あの面接官に、人の信実の存するところを見せてやろう。そうして笑って東武東上線に乗って埼玉へと引き返してやる。メロスは、悠々と身仕度をはじめた。スコールも、いくぶん小降りになっている様子である。身仕度は出来た。さて、メロスは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢の如く走り出た。メロスには世界地図がわからぬ。ズドン。

1 2 3 4 5