「いえ、大丈夫」
「天災には敵いませんね」
「電車も、バーも、ね」
「おっしゃるとおりです」そう言ってマスターはジントニックを女の前に置いた。
「ありがとう」女は一口飲んだ。「おいしい」
「ありがとうございます」
「今夜は私以外誰も来なさそうね」
「ええ」
「今夜は仕事はもう終わりにしてマスターも一杯どう?ごちそうするわ」
マスターは雨音に耳を傾けてから言った。「そうですね。ありがとうございます。お言葉に甘えていただきます」
マスターは深々と頭を下げ、バーボンのオンザロックを作り、女にグラスを向けた。「いただきます」
「銀座に取り残された人たちに」
二人がグラスを合わせると、カチャンと店内に音が響いた。「こんないいお店見つけられたから乱暴な天気に感謝しなくちゃ」
「恐縮です」コースターにグラスを置いてマスターは言った。
「素敵なお店ね」
「ありがとうございます」
「お店の名前が気になってつい入っちゃったの。何か意味があるのかしら?」
「いえ。特に意味はありません。思いつきです」マスターはもう一口バーボンを飲んだ。
「猿と鋏。マスター、センスあるわ」
「ありがとうございます」
その後二人はしばらく無言だった。店内でも分かるほど雨風はさらに強くなっていた。マスターはグラスを磨きながら時折バーボンを飲み、女はタバコを吸いながら、浮かんでは消えるジントニックの泡をじっと見つめていた。
「猿と鋏で思い出した。マスター、猿カニ合戦って知ってるでしょ?」唐突に女が言った。
「ええ。昔話にはそんなに詳しくはありませんが」
「猿とカニが柿の種とおにぎりを交換して、その後猿が柿の木を一人占めするために蟹を殺す。その復讐を息子がする話」