小説

『手袋と赤ん坊』ふくだぺろ(『北米先住民の民話』)

   そのあとにはいろんなことを経験した。毎日の生活のなかで漏らされるため息が、彼女だった。毎日すこしづつ、「は――――」自分を吐き出しながら、いつか吐き出すものがなくなる日を待っていた。というと、不幸な人生のようだが、そうではない。長い不幸をこえる短い幸せがあった。夜寝るまえの月明かりとか、ふと調理の手を休めた静けさ、洗濯物を干すときの青空がときどき幸せを思い出していた。

   そうしたとき、羊水のなかで赤ん坊の目は涙を流していた。その短い幸せがなんだったのか、生後すぐに川に流された赤ん坊はついにしることがなかったが、このときの羊水の温度こそが母親の記憶だった。いまも思い出していた。

   いつまでもこの感覚を味わっていたい赤ん坊は手袋が倒木の枝にひっかかっていたのに気づかなかった。数ヶ月前に落雷のあったところだ。倒れた木はまだ真っ二つにはなっていなくて、地面にしがみついていた。

   「絶対、離さへんでー」
   木が言ったかどうかはしらないが、忘れ物をしていたのはたしかだ。銀杏だった。132,500,000年前の中生代に従兄弟と約束をしたのだ。その従兄弟はもう化石になっていた。アメリカはアラスカの、鍾乳洞のさらに奥底で、寒さに震えながら ぽた 1年に1度、滴のたれる音を聞くこともない地底で暮らしていた。化石になるのもけっこういい気分らしい。「いい気分だよ」の返事をひとこと聞くために120年待たないといけなかったが、そういうことらしい。

   その銀杏と従兄弟が出会っていたとき、地球上の大陸はたった1つで「パンゲア」と呼ばれていた。1つだったのが、その後地球が1億回以上太陽のまわりをまわる間にバターのように溶けてバラバラになったのだ。正確には、当時「パンゲア」と呼ばれていたのではない。1912年にドイツ人アルフレート・ヴェーゲナーがはじめて大陸移動説を提唱し、いまある7つの大陸は元は1つだったと主張した。そして異端扱いされ、ヴェーゲナーは氷に閉じ込められて死んだ。あるいはいまもグリーンランドの氷河のなかで生きている、と言った方がいいかもしれない。

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