小説

『紡ぎ虫の糸はし』石橋直子(『蜘蛛の糸』)

 突然がくりと蜘蛛の体が揺れました。驚いて目に意識を凝らすと、不自然に血の池が迫っていました。つかんだ。そして、上へとするする引き上げられるのを感じました。お釈迦さまはさぞお喜びでしょう。カンダタの顔を見上げます。彼は息をつめていました。汗が血とまじりあって、髭の先から滴りました。赤い眼は、天に向けられていました。
「これは、俺の糸だ」不意に男が下を向いて叫んだので、蜘蛛は心臓が縮みあがりました。その声が、自分に向けられていると思ったのです。孤独が終わった気がしたのです。
「お前たち、ええい、触るな。俺の糸だ、俺だけの、俺を救う……」
 一瞬、上に糸を引っ張られたような気がしました。そして次の瞬間、ふつりと震えを感じました。ああ、おちる。そう思いながら男の顔に目を向けました。大きく歪んだその顔は、目も、口も、鼻も、刹那のうちにふくれあがって、いまにも顔全体が穴に埋め尽くされるかのように思われました。蜘蛛はギンヤンマの複眼を思い出しました。醜い、と思いました。しかし、目を背けることも、牙を突き立てることも出来ませんでした。だから、吸い寄せられるように、その複眼を見ていました。私を見ているのかしら。蜘蛛はつかの間そう思いましたが、すぐに自分を通り過ぎたもっと遠くにその目が向けられていることに気付きました。あまりの寂しさに、腹がひゅうっと冷たくなりました。
 カンダタは、醜く、かわいそうでした。それでも蜘蛛は、カンダタをいつまでも見ていました。目が、離せなかったのです。もしかしたら、これが慈悲というものかしら、蜘蛛は思いました。上ではお釈迦さまが、さぞかし悲しい瞳をしていることでしょう。
 私は死ねるのかしら、終わるのかしら。死ねないのかしら、永遠なのかしら。一緒なのかしら、ひとりなのかしら。孤独ほど恐ろしいものはないのですから。孤独ほど恐ろしいものはないのですよ。いっそ何も感じなければいい。一瞬のうちにいくつもの考えが生まれては、消えていきました。とぷり。感触が生きていた皮肉に顔をゆがめた蜘蛛はそのまま沈んでいきました。柔らかく、生ぬるい血の池は、蜘蛛の体温を奪っていくようでした。冷たい腹を抱えて、蜘蛛は沈んでいきました。

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