小説

『紡ぎ虫の糸はし』石橋直子(『蜘蛛の糸』)

「なんと恐ろしいことを言うのです」細い目が少し見開かれ、深い色をたたえた瞳がまっすぐ彼女をとらえました。「あの男の優しさに触れたのは、ただ、おまえだけなのですよ。おまえが信じてやらなければ、あの男はどうなります、孤独よりも恐ろしいものはないのですから」
 地獄というところと、孤独というものと、どちらが恐ろしいのかしら、一瞬だけ彼女はそう考えました。恐ろしいことに触れる強さは持っていないはずでした。けれどもひとたび“宣告”を受けた蜘蛛には、選ぶと言うことなど思いもよりませんでした。あの深い瞳の色にあらがうことは、孤独よりも地獄よりも恐ろしいことだったのです。
 もう蜘蛛はなにも言いませんでした。彼女は、お釈迦さまのほっそりした指に、のろのろと銀の糸をかけました。そうして、一歩一歩と虚空へ踏み出しました。
 慈悲とはどういうことでしょう。血の臭いが鼻をかすめるようになった頃、蜘蛛は少しだけそんなことを思いました。自分に言葉をかけたお釈迦さまは慈悲に満ちていらっしゃいました。それは自分があの男を引き上げてくると信じているからでしょう。だからあんなにも美しい笑顔で、自分をこの血の池へとお送りになったのでしょう。
 では……。ぼんやりと蜘蛛は考えました。底知れぬ闇の奥から、溜息のような呻き声が聞こえてきます。罪なのでしょうか。信じないことは、許しがたい罪なのでしょうか。心に描いたお釈迦さまの笑顔にいくたびか問いかけをしてから、せんなきことだと思い返した蜘蛛は、深い息をつきました。呻き声のした方に目を落とし、そしてそのまま沈み続けました。

 闇が揺らいだように見えました。それから、少しずつ白い点が見え始めました。白い点は、近づくにつれ、歪んでうごめき始めました。それは、亡者の顔でした。血に濡れた髪を貼り付けたそれらは、口々に言います。
「ただ、楽になりたくて……」「畜生、あいつ、知ってやがったのに」「あのだらしない隣の女……」「はめられただけなんだ、なあ」「あたしだけが、どうして」
 それは哀しく、醜い声でした。恐ろしくて、恐ろしくて、胃の腑が重く、喉へとこみあげてくるように感じました。重い腹のせいで、血の池が一層迫ったようでした。恐ろしさに、沈められるようでした。
向かう先は、定められていました。真下に見えるいびつな顔。あれが、カンダタ、私が生の世界にいることを少しだけ許し、長くせしめた男。覚えているような気も、初めて見たような気もする、やせこけた顔でした。蜘蛛はその顔を認めると、見ることをやめました。もう見るべきものは何もありませんでした。

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