小説

『凍てつく血、青銅の心』柳氷蝕(ギリシャ神話『エンデュミオン』)

 贖罪は、自分の代わりに果たされようとしている。再び、あの静謐に燃え盛る命の輝きを目の当たりにすることも叶った。それなのに、苦しくてたまらない。心臓も、心も、出来るのなら、今すぐ抉り出して捨て去ってしまいたい。死神は黒衣の上から、胸を握るように押さえた。殆ど白骨同然の指が、薄皮を破かんばかりに突き立てられる。その程度の痛みなど、存在しないも同然だった。
 そのとき、ぱさり、と草むらを何かが柔らかく打った音がした。
 右手に握っていた一房の髪が、滑り落ちたのだ。 
 微弱な音だったが、一帯を覆い尽くす静寂の中で、それはしたたかに死神の耳を打ち付けた。
 死神は我に返った。
 ――そうだ。冥王に、これを届けねばならない。あまりにも遅くなると、冥王がお怒りになるやも知れない。
 果たさねばならない義務の存在に、救われる思いがした。すぐさま足元の髪束を拾い上げ、指の間に絡めるようにして握り込む。縋るような動作だった。それが、自分の唯一の寄る辺であるというように。
 死神は、金縛りの解けた体を翻した。血走った眼は、ますます深まった夜闇の奥をひたと見つめている。
 そして、溶けそうだった心を氷で閉ざした。今宵のことなど決して思い出すまい、いや、そもそも何も起こってなどいないのだということにするために。全ての熱を冷まし、自分を狂わせるだけのものを全て、冷たい眠りに落とすために。
 血を流したならば、その傷口を、血ごと凍らせねばならない。本当は、血すら流してはならない。それが死神であるということだから。
 ――心は青銅、心臓は鉄。冷たいままの金属だ。
 自分を目の当たりにした魂達がそう呼ばわる通りなのだと、自分に強く言い聞かせる。死神であること以外に、この醜く、命を奪い取るしか出来ない自分に存在価値はないと。
 生命が存在する限り、凍てついていなくてはならない。万人に等しく訪れる、公平無私な死でなくてはならぬ。
 永遠の厳冬に訪れた一夜限りの春を、思い出すことはない。
 夢を見ることも、きっとない。
 死神の姿は、冷たい夜の中に、跡形もなく消え去っていった。

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