小説

『凍てつく血、青銅の心』柳氷蝕(ギリシャ神話『エンデュミオン』)

 震える声で呟いた女神の双眸から、はらはらと銀砂のような光が零れ落ちた。
「死神がお前の美しさに嫉妬して、こんなことをしたのに違いない。今すぐ、わたしが死を追い払ってあげましょう」
 女神は、自分の纏った薄衣をためらいなく取り去った。一つも真っ直ぐでないたおやかな線で造られた体が露わになる。胸の膨らみは豊かで、腰のくびれは三日月のようだ。しかし、それらは官能的というよりも、遥かに幻想的だった。
 やがて、慣れた手つきで、少年も生まれたままの姿にされる。
 二つの体が、溶け合うように重なった。
 色を失った唇を、薄いが艶やかに潤んだそれが、水音を立てて啄む。角度を変えて、何度も、何度も。それは花の蜜を吸う蝶を思わせた。合わさった部分から、熱を帯びた息が薄雲のように流れ、夜気に溶ける。
少年の青ざめた部分が、徐々に色彩を取り戻してゆく。大地を覆い尽くしていた雪が溶け、世界が淡い色彩に染まり始めるのにも似て。女神に応じる様子のない体は、だが、魂の底から歓んでいるように見えた。
死神は、幽冥界の大罪人になってしまった気分だった。渇いた喉を潤そうとすれば、顎下の水は引いていく。飢えた腹を満たそうとすれば、果実を実らせる枝は、風で手の届かぬ場所へと吹き上げられる。求めるものは、どれ程近くにあっても、決して手に入らない。永久の餓えに苛まれ続ける。
 死神の受ける責め苦は、それよりも遥かに苛烈に違いなかった。求めるものが得られないばかりでなく、それは他者のものだという事実を突き付けられる。餓えはやがて、別の感情へと移り変わる。
 目を背けたかった。けれども、罪人が罰から逃れられぬように、熱を帯びて重なり合う二つの体から、目を逸らすことは出来なかった。
 ――どうして、自分はこんな醜い死神なのだろう。そうでなかったなら、せめて兄の半分ほどでも美しく、安らかな性質を持っていたなら。あの女神のように、少年を何も憚ることなく愛でられるのに。温かくまろやかな歓びを、味わうことが出来ようというのに。
 その羨望が、欲望が、死神に知識としては知っていた感情の名を、悟らせた。自分の深奥で蠢く、夜の醜い部分とは別の、誰しもが持てるそれを。
 ――そうか、自分はあの少年を……。
 しかし、死神はそれと向き合うのを拒絶した。一度感情が確固たる輪郭を帯びてしまうと、それは鉄鎖となって、自分を永久に縛り付けるだろうという確信があった。

1 2 3 4 5 6 7