「ええ、お陰さまで」
「そう、よかったわ」
申し訳程度に口角を上げ、時子は自分の机に戻った。そして風呂敷を広げて教本と筆入れを出す。
本当はもっと、他に聞きたいことがあった。青乃先生がいらしてたのね。青乃先生に診て頂いたの。いつも診て頂いてるの。青乃先生とどんなお話をなさったの。
しかしそれらのどれひとつとして、言葉になるものはなかった。
その夜、時子は家に帰っても身の置きどころが見つからないまま、夕食の席にもつかずに布団を延べた。
「どうしたの時子」
心配した母さまが部屋へ上がってきた。
「どこか具合でも悪いの」
「ううん、ただ、少しお腹が痛いような気がして」
そう答えると、仮病も本物の様子になってくるから不思議だ。
「まあ大変。先生をお呼びしましょうね」
母さまはそう言って立ち上がると、下へ降りようとする。時子は慌てて声を上げた。
「いいの、いいのよ母さま」
その声に、母さまは足を止めて振り返った。
「でも」
「なんでもないのよ、本当に。今晩眠れば、すっかり良くなるわ」
「そう、本当に?」
「ええ、本当よ」
「わかりました。けれど、悪くなったらすぐにおっしゃいよ」
そう言って母さまは居間へと降りていった。
しんとなった部屋にひとりになると、何やら目と鼻の裏側から熱いものがこみ上げてきた。
今、まさに時子はひとりぼっちなのだ。仮に母さまが人をやって青乃先生がいらしてくださったとしても、先生は時子に、がんばりましたねとおっしゃってはくださらないだろう。その美しく澄んだ瞳は、きっと時子の中に凝る黒いものを見透かしてしまわれる。そして、二度と時子の名前を優しく呼んでくださることはないのだ。