小説

『青乃先生』朝蔭あゆ(『土神と狐』)

「春子さん、今日は素敵なハンケチをお持ちね」
「ありがとう。これ、ハンガリーという国のものなのよ」
「ハンガリー?」
「そう。ハンガリーはね、刺繍や陶器で有名なの」
 春子は白いハンケチを広げて見せた。鮮やかで愛らしい花の刺繍が、ふわりと教室に咲いた。
「ね、春子さんはハンガリーへいらしたことがあるの」
「お父さまが貿易をなさっているのでしょう」
「伺いたいわ。ねえ、ハンガリーってどんなところなの」
 級友たちが口々にせがむ。春子はにこりと笑って頷いてみせた。
「ええ、小さな頃、お父さまに連れて行って頂いたことがあるわ。冬は寒いけれど美しい国よ。ドナウ川という大きな川が流れているの」
「まあ素敵」
 華やかな話に沸き立つ級友たちを尻目に、時子は風呂敷を広げて帰り支度を始めた。
 時子は、この春子という友がどうにも苦手だった。それは己の愚にもつかぬ自尊心のお陰なのだと薄々感づいてはいたが、それでもやはり虫が好かないのだ。
 時子にしても、町の地主の娘である。しかし、兄と姉、おまけに弟妹もいるものだから跡取りとは縁遠い。それに今時分、地主というのはどうも土臭くていけない。一方の春子はといえば、貿易商というハイカラな家のお嬢さんなのだ。
「みなさんも、一度いらしてみたらよろしいわ。それは楽しくてよ」
 そして誰ひとりとして、春子の言葉を疑う者はいなかった。



 そんな春子の唯一とも言える欠点は、その体の病弱であることだった。
 ただの時でも風邪をこじらせるのに、季節の変わり目などには長いこと学校に姿を現さないこともしばしばだった。
 その年の菜種梅雨は、いつまでもしつこく後を引いた。
 時子は大きなこうもり傘をさして、なるたけ泥を跳ねかせないように家路を急いでいた。
 ふと顔を上げると、道の向こうの遠くに、懐かしい白衣の姿が見えた。唐突に時子の胸の鼓動は早くなる。目をこらすと、果たしてそれは青乃先生の姿だった。

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