呆然とした。母親が呼んだのは、隼人の名前だけだった。
美緒はとなりにいる隼人を見つめた。興味深そうに、テレビの中の母親を眺めている。
いつだってそう。苦労するのはいつも私だ。隼人は別に何もしていない。ただ笑って、泣いて、食べて、遊んで、寝るだけ。それなのに、愛されるのはいつもこの子。誘拐犯の女にも、そして母親にも。
美緒は涙する母親に目を移し、鼻で笑った。認めるしかなかった。普段、自宅でお経のように唱えていた〝死ね〟という言葉。それは母親に向けたものではなかった。本当にいなくなって欲しかったのは、彼女の中にある僅かな母性を独り占めしていた隼人だったのだ。
隼人が生まれてから、母親は美緒のことを目に映さなくなった。ガキ呼ばわりしているとはいえ、母親はいつも隼人の帰りが遅いことがあると気にかけていた。機嫌が良い日は一緒に寝たりもしていた。ふたりと自分の間に壁があることを、美緒は今まで気が付かないようにしていただけだった。
「う……」
仰向けに倒れていた誘拐犯の女が、うめき声をあげて少し動いた。まずい、起きる。美緒は手に持っていたリモコンを床に投げ、隼人を連れて靴も履かないまま部屋を飛び出した。
女の部屋を出て、美緒は隼人の手を引いて走った。心も体も疲弊していたけれど、息を切らし、ひたすら足を前に進めた。そしてその足は、母親のいる自宅へと向かっていた。ここがどこだかよく分からないけれど、美緒は帰れる気がしてならなかった。憎いはずなのに、頭に浮かぶのは母親の顔だった。あの酒臭い部屋だった。
「お姉ちゃん、もう疲れて走れないよ。おんぶして」
隼人は泣きそうな声をして言った。しかし、美緒は氷のように冷たい声で、
「甘えないで」
と突き刺すように言った。隼人は、今目の前にいる姉が、いつも自分の我儘を聞いてくれる姉とは別人なのではないかと思った。
美緒は考える。自分はもう愛されていないと分かっていても、隼人という宝物を持ち帰ったら何か変わるかもしれない。母親の目が少しでも私に向くかもしれない。愛されたい。ほかの誰でもない、私は母親に愛されてみたい、と。