小説

『夜と駆ける』木江恭(『スーホの白い馬』)

シュヌだ」
シュヌ?」
「余の名だ。もう誰も呼ぶ者はないと思っていたが。そなただけ余の名を知らぬのも不公平だ」
シュヌ――ありがとう。それから、よろしく」
 スーホが右手を差し出し、シュヌがそれに応えようとした瞬間、不意の曙光がスーホの目を刺した。
 スーホは咄嗟に左手をかざして目を閉じた。瞼の裏側が金と赤に灼け、ちかちかと痛む。
「早いな、もう夜明けだなんて」
 ぼやきながら目を開けると、まだ暗い空が広がっていた。
 スーホはうろたえた。いつの間にか体は草の上に仰向けで転がっていて、東の空がかすかに薄紫色に染まっている。起き上がると、胸元から固いものが転がり落ちた。大きな翡翠の首飾りだ。はっとして辺りを手で探ると、空の桶はすぐに見つかったが、愛用の革袋は見当たらない。
 そして、黒髪の少年は影も形もなく、白毛の愛馬も青毛の若馬も姿を消していた。
シュヌ?ツァス?」
 今宵は夢のような夜、と謳った声が耳元に蘇る。
確かに夢のようだった。しかし夢でなかった証は、確かにスーホの手の中にある。
 スーホは首飾りを握りしめ、立ち上がった。
「わかったよ、シュヌ。また来年の競技会で会おう」
 低く差し込む金色の光を辿るように、スーホは家族の待つゲルへ駆け出した。

 やがて、スーホは知ることになる。
 競技会の数日後、王の一行が王位を狙う先王の外戚に襲撃されたことを。王を乗せた青毛が斬りつけられ倒れた瞬間、躍り出た白馬が王をその背に掬い上げたことを。雨のように降る追撃の矢を受けながら、猛然と駆け抜けたことを。三日の捜索の後、やっと発見された王に、深い傷を負った白馬が寄り添っていたことを。白馬が分け与えた体温と、誰かが渡したらしい革袋の水が、王の命をかろうじて繋いだことを。間もなく白馬は息を引き取り、その翌朝、王が長い昏睡から目覚めたことを。

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