小説

『美しい人』澤ノブワレ(『雪女』)

――ああ、このまま死ぬのだ、とぼんやり考えておりました。「いつもしていたように」というのは、少し正確さを欠いておりました。なぜなら、その時の父の無慈悲さは、それまでとは比べ物にならなかったからであります。ですから、僕は衝撃が止んだとき、自分がとうとう死んだのだと思ったのです。感覚が無くなったのだと。

――そして、目を開けると、父が倒れておりました。

――そして、その横には、美しい人が立っておりました。


「……やっぱり、嫌だよ。」
 僕はエンターキーに小指をかけたまま、静かにそう言った。どうしようもなく、声が震えていた。彼女は、何も言わず、静かに微笑んで、ゆっくりと首を振るだけだ。
「なあ、もう一度考え直そう。ルールに従う必要なんてないよ。今まで通り……二人で幸せに暮らそう。きっと……大丈夫だよ。」
 僕はとうとう堪えきれなくなって、彼女の膝に顔を埋めた。分かりきっていた。もう、どうしようもないのだと。そうやって子どものように彼女に縋ることが、僕に出来る唯一の抵抗だった。彼女はそんな僕の首筋に冷たい手を当てがい、もう片方の手で僕の頭を優しく撫でた。いつでも、こうしている時が、本当に、本当に幸せだった。あの時、雪の降る曇天の下で見た淡い夢を、僕は偶然手に入れた。そして、その僥倖にずっと甘えてきた。だけど、それの何がいけないのだろう。僕たちは幸せで、僕たちの幸せが、本当は許されないことだなんて、誰も知らないのだ。
 古の文豪が定めた「三原則」は、アンドロイドが人間と変わらぬ学習機能や感情を持つようになった今現在でも、世界共通のルールとして現存している。従って、父を殺したとき、彼女は死ぬはずだった。そのようにプログラミングがしてあるはずだったのだ。だが、どういうわけか、それが働かなかった。父に暴行を受けたことで回路に一時的な異常をきたしたのか、それとも第一条前半「人間に危害を加えてはならない」と第一条後半「人間が危害を加えられるのを黙視してはならない」の狭間で混乱が生じたのか。とにかく、彼女の自壊用回路は、僕の父を殺したと明確に認識していながら、それに対しての反応を起こさなかったのだ。
 

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