小説

『美しい人』澤ノブワレ(『雪女』)

――そこには、自分が一番見たくなかった光景が広がっておりました。目を血走らせ、顔面をどす黒い紫に上気させた父が、口端から泡を滲み出させ、何事かを叫んでおりました。その足元には、蹲るユキの姿がありました。彼女は震えることもなく、ただただ、そこに蹲っておりました。父は目を明後日の方向に向けながら、またうわ言のように何かを叫んで、ゆっくり足を上げました。そして、膝の高さまで上がったその足を、彼は何の躊躇いもなく、女の背中へと振り下ろすのでありました。そしてそのままの勢いで、何度も、何度も、空き缶でも踏み潰すかのように、ナメクジを駆除するかのように。

――僕に、いつもしていたように。

――そこに一切の容赦はありませんでした。死んでも構わない、壊れても構わない。そのような勢いで、踏み抜き続けるのでありました。僕はガタガタと震えながら、しかし、一つのことを冷静に悟ったのでありました。

 母を一番「必要」としていたのは、やはり父だったのだと。

――気がつくと、僕は扉を開け、父に向かって駆け出しておりました。僕は父の背中に飛びつくと、ガムシャラに打撃を加えたり、服を引っ張ったりしました。しかし、それは小さな子猫が毛糸玉のようになって、巨大な獅子に飛び掛っていくように、無謀で無力な行動でした。僕の体は一瞬で跳ね飛ばされ、床に叩きつけられたのであります。

――父が僕に何か叫んだ気がしました。

――床に叩きつけられた痛みと挟み撃ちにするようにして、上からの衝撃が加わりました。

――それは、何度も、何度も、何度も……何度も……
 

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