小説

『傘売りの霊女』香城雅哉(『マッチ売りの少女』)

 私は傘は守ってくれるものと思っている。雨や陽射しから守ってくれるもの。つまり、いろんな人を守ってあげる人になれ、と祖父は伝えたかったのだと思っている。だが、それだけでは足りない気もする。
「ワシはのう、人相は悪いが愛想はええけえ。昨晩、ちょっと飲みすぎてのう。気づいたら草むらで寝とった。じゃけえ、服が汚れとる。そのおかげで姉ちゃんと出会えたわけじゃが……」
 男は大きくあくびをした。
「姉ちゃん、この世で人間が一番忘れるもんって何じゃと思う?」
「忘れるもの?」
「傘じゃよ、傘。人は皆、すぐ忘れる。絶対に必要なもんなのに、気づけば忘れとる。雨が止めば、どこ吹く風。駅にも店にも、乗り物にも置き忘れていく。阿呆じゃろ。そういうワシも数え切れんほど置き忘れてきたけどのう」
 男は笑い、続けて口を開く。
「姉ちゃんはどこかに傘を忘れた経験があるか?」
「ありません。私が生まれたときに祖父が贈ってくれてものをずっと使っていました。宝物でしたね」
 傘と共に歩んできた。ゆえに傘は特別な存在だった。
「そりゃ、姉ちゃんが特別なだけじゃ。普通の人間はたかが傘でしか思っとらんじゃろう。忘れれば、また買えばいい。なくせば、また買えばいい。そんな程度のもんじゃ。じゃけえ、爺さんはすぐ忘れられない人間になれって言いたかったのかもしれんの」
 すぐに忘れられない存在。そんなことを考えたこともなかった。
「じゃあの、姉ちゃん。無事に成仏できることを祈っとるよ。あぁ、頭が痛えなあ。どっかで水でも買うて飲まんとやれんのう」
 男はふらふらしながら、闇の中へと消えていった。と同時に傘が一本なくなっていた。男が持って行ったのだろうか?
 

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