小説

『もみの木』小高さりな(『もみの木』)

 青年の後ろから、老人が「ちょっと、本を探してもらいたいんだが」と声をかけた。青年ははっとしたように、「失礼します」と剛に会釈すると、老人の方を向いた。
剛はしばらくの間、呆然と立ち尽くし、青年の後ろ姿を見ていた。剛は近くを通りかかった別の若い店員に声をかけた。
「ちょっと、あの人なんだけど」
 剛の言葉を遮るように、若い店員はさも迷惑そうに言った。
「あれ、井手さん、またやらかしました? あの人、突然お客に本の解釈だとか、言いはじめちゃうもんですから、クレームが多くって、いい迷惑っすよ。…どーも作家志望っていう噂ですけどね」
 店員は鼻で笑った。
 剛は、手に持った本に目を落とした。手が勝手にページをめくっていた。『もみの木』を読むのは、中学生以来だ。
 剛は静かに本を閉じた。読み終わっても、やはり青年のようには思えない。やっぱり剛には、もみの木は夢ばかり見て、最後の最後にもっと昔を楽しんでおけばよかった、と人生を悔やんだ悲しい話にしか思えない。
 本を棚に戻そうとした剛は、本の背表紙を見て、ふと動きを止めた。次の瞬間、剛は体に微弱の電流が走ったように感じた。
 父が剛に大事な話をするのは、いつも父の書斎だった。父の書斎の本棚には、たくさんの本が並んでいたが、その中にこの赤い背表紙は確かにあった。
 嫌いな話の本をわざわざ本棚に置くだろうか、そもそも嫌いな話を教訓として使うだろうか。
 剛の頭に、一つの考えが浮かんだ。
 

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