上手くいった。俺はうな垂れて、にやけそうになる口元を隠した。旦那の体調が悪くなっていたのは知っていた。半年前から部屋にこもりがちになったことに気付いた俺は、旦那の身の回りの世話をする使用人に裏で話を聞きだしていたのだ。肺癌、しかも末期とのことだった。もう明日をも知れぬ命。旦那がこのまま死ねば俺を抑える者はいなくなる。そうなれば俺の天下だ。俺は着々と裏で準備を始めた。といっても、会社での仕事は実質的に俺が社長の仕事をしていたのだから問題はない。問題はあの馬鹿息子だ。あの馬鹿息子は俺が治夫として生きていく中で確実に邪魔になる。旦那が死んだ後あいつはどのように動くのか。保身を図って自分が社長の座に就くと言い出しかねない。そうなれば面倒だ。
だから俺は本物を追い出した。社長であり家長でもある旦那はもうほとんど外に出られない。俺に対する監視も緩んでいた。使用人たちが慌てふためいているなか、俺は馬鹿息子のために旦那が用意していた口座の金をごっそり俺のものにした。監視がなければ口座を動かすことなど容易い。何しろ俺は治夫なのだから。自分自身の口座をどう動かそうが、外部からは然程怪しまれない。
口座の金がすっかり無くなっていたことに気が付いた馬鹿息子は副社長室に怒鳴り込んできた。自宅には父親がいる。万が一、自分の金遣いの荒さや、詐欺が原因で大金を無くしたのであれば、いくら息子に甘い旦那でも咎めるに違いない。そう思って旦那も使用人もいない会社へ来たのだろう。奴にとっては会社の信頼問題も何も関係ない。
「わかっているぞ。お前が裏で糸を引いたことなんて。このまま会社でばらしてやろうか? お前が治夫の偽物で、俺が本物だと」
呆れるほど簡単に釣れた。俺は至って冷静だった。
「君、どこの誰かは知らないが何を言っている? 私はもう何年もここで副社長として働いているというのに、君が副社長だったなどと面白いことを言う。夢でも見たのではないかね? 森下くん、彼を知っているかい?」
「いいえ、存じ上げません。お顔や声は似ているかとは思いますが」