小説

『彼女との距離』野口武士(『竹取物語』)

 彼女がこの町に来たのは小学三年生の時だった。
 彼女の父と母は仕事で海外を転々としている(ほら、このフレーズが持つ何とも言えぬ力!)。もちろん、彼女もそうやって生きてきたのだが、日本人の暮らしをさせたい、日本人のアイデンティティを持たせたい(と、父が言ったそうだ)ということで、彼女はこの町の、家具職人をやっている祖父母に預けられた。ちなみにその祖父母がやってる家具屋は、僕の家の隣にある。
 彼女が引っ越してきた事を僕は全然知らなかった。何せ学校から帰るとすぐ遊びに行き、帰ってきたらご飯もそこそこにゲーム三昧。両親はあいさつされたのだろうけど、その情報が僕に伝わる事はなかった。
 でも彼女が転校してきた日のことは、いまだにはっきり覚えている。
 その日、いつものように僕は遅刻ギリギリで教室に飛び込んだ。当然、そこはいつもと変わらぬ、騒がしい教室の筈だった。しかしその日は何かが違っていた。何だろう?妙に浮かれているというか、落ち着きがないというか。まるで夏休み前の終業式を終えた教室のようだった。僕が雰囲気に面食らって所在なくキョロキョロしていると、僕を見つけたイチローが僕に駆け寄って来た。そして全力疾走の動悸もおさまらぬ僕に向かって、さらに心拍数をあげるような一言を言い放った……たっぷりの唾と一緒に。
「おい、アメリカから転校生が来るんだってよ」
 転校生……。この響きにときめかない小学生がいるだろうか!もちろん僕も例外ではない。男?女?どんな奴?友達になれるかな……?等々。「転校生」だけで教室を浮足立たせるには十分すぎる単語だが、贅沢にもそれに「アメリカ」がついた。田舎町の少年少女にとってこの組み合わせは鰻と梅干を一緒に頬張るのに等しい。僕は顔にかかったイチローの唾を拭くのも忘れて、
「マジか!」
と叫んだ。しかし同時になりはじめた始業のチャイムと、既にお祭り騒ぎの教室の喧騒に僕の声は見事にかき消された。
 みんなが興奮収まらぬ様子で席に着く。イチローに
「でも、なんでこんなとこにアメリカから転校してくるんだよ」
 と当然の疑問を口にした。イチローは
「知らねえよ。でもそんな事関係あるか?」
 と目をキラキラさせながら言う。僕はイチローに感心した。その通りだ。関係ない。この一大イベントを提供してくれたのが、誰であれ何であれ、こんな興奮を与えてくれるものなんて僕らにはめったになかったのだ。そしてこういう時のイチローは、その変化を心から楽しもうとする。遅ればせながら、僕も余計な事を頭から締め出して、今、目の前にあるそのワクワク感に全身全霊で乗っかる事にした。
 

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